12月4日 午前中、母と買い物に行く。用事はそれだけ
個展の会場室内で、ある方が「とらわれている鎖を断ち切って、自由を求めてるんだ」というようなお話をしてくださった。「そうでしょ?」と話好きそうにしてくださって、なごやかな話になるところだったのに、私は「超人ハルクをモチーフにして、だから緑で・・・」超人ハルク・・・しか思いつかなかった。
近所の、車で5分のスーパーへ、10時過ぎの開店時間間もないはずなのに、駐車場はほとんど、いっぱいだった。大盛況ではないだろうか。師走の賑わい。小雪が降ったり止んだり、気温はマイナス2度Cを表示していたけれど、昼近く快晴になって、日差しが強かった。
で、夕方、スーパーで買った冷凍水餃子をそれなりに調理して、実家に持っていったら、電気はついているのに、玄関に鍵がかかっていた。滅多にないことなので、私は動揺するわけではないのに、もちろん胸騒ぎだとか、不穏なことを考えるとか、さまざまなあり得ないわけではないことをゆっくり想像を巡らせはした。それで、合鍵は持っているので、メモ書いて置いてこようと思ったので、ガチャガチャとドアを開けたら、父母が出てきて、「誰かと思った」と言われた。
私自身のことを、自分で解釈するなら、ここにきて、「集団から静かに追い出されゆくある種の個体」みたいな感覚をよみがえらせるというのは、子供じみていると思う。
子供だと思う。
でも、うちの親も、なんか異質な感覚を呼び覚ましたみたいな、「なんだ?今度は?」みたいに、とりつくろうように面と向かって言ってしまうというのは、やはり、そうなんだと思う。
ことは、私と両親の三人でのことではなくて、家には背後というものがある。
哲学的、図像的にいうなら、ものごとには前景と後景があって奥行きがある。
自分の部屋に戻ってから、FBやTwitterを、一時間ほど、だらだらと見ていた。
幾つか、メモしておきたい記事もあった。
マウスの実験で、抗不安薬、ストレスを感じさせなくする薬らしい、それを与えたマウスは、マウス同士で助け合うことがなくなる。とか。
不安である方が、相手に共感する、そして利他行動も起きやすくなるということだ。
へー・・・・、不安なままでいいのか、と思った。
記憶力をつけるには・・・と、アメリカ記憶王決定戦優勝者が実践する方法というのが、それが、読んでいて面白かった。
それは、Twitterに、書いておいた。結局、Twitterというのは、思いつきが書きやすいんだ。おまけに、メモみたいな、書いたモノを紛失したりすることがない。
今のところ、紛失する可能性ゼロなのが、Twitterなのかもしれない。
おまけに、必ず、少なくともひとりやふたりが、そんな人って、どんな人なんだろう?自分だったら、人のものを自分ごとのように読んだりすることがあるだろうか。友人や知人だったら、ある。それを読んだり見たりしている。その、不可思議さというのは、あまりにも、不可思議。チャットを思い出す。
クリスマスが近いからだ。
チャットは、夏だったけど。
Twitterの投稿で、ジンバルつけてRONIN撮影というのはどうやってするものかの投稿があった。
ぜんぜん、興味ないのに、興味ないということのほうが新鮮に思える、その撮影法はそれほど新鮮だ。
ジンバルかあ。ヌゥウー・・・と、あのズームなどの動作を感じる、あのヌウーという動きがあまり好きじゃない。
動画好きとはいっても、ああいうアプローチじゃなくて、と考える。
12月3日 妹夫婦と、実家の玄関前でバッタリ会えたグッド・タイミング
この絵、電車にお客さんが乗っていない。陸橋の脚が鉄塔のようになっている。ペンネームのGulliverは、この頃、ローマ字の並びがかっこいいと思っていたので。
昨日、ホエーに漬け込んだ野菜は、いい味になったと思う。
「ブログ」には、日々の日記、「日記」には、本の感想とか考えとか。それが、ときどき間違っている。日付をタイトルに持ってきているのが、日々の日記である「ブログ」。
16日に、参加しているZOOM読書会で、題(テーマ本)が『くじ引き民主主義』吉田 徹/著なので、16日までは、集中的にその本を読むことにした。Amebloに継続中の、劇団の、ブログの中で触れたキーワード「承認欲求」にからんで、関心があったので『承認をめぐる病』斎藤 環/著を読んだ。すごく気になっていた、著者による精神病を哲学として解読していく、その辺のことが、本の中で一章をさいて、そこに書いてあったので、「そうなのか!」と驚いた。とにかく、本のことは、「日記」のほうに書くつもりしている。
「ブログ」と「日記」を分け隔てしないで、最初にスタートしたので、とにかく、自分でややこしくしてしまった。
『レヴィナスの時間論』内田 樹/著と『理論と冷戦』イ・アレックス・テックァン/著
とにかく、本は、「日記」
こうやって整理整頓していっているおかげで、私の生活が没社会的であったとしても、考えるということ自体が、それはこの世で生きる術であり、開かれたことなんだと、腑に落ちる思いがする。と、いっても、積極的に発信しようとか、そう社会に向けることに、向かっているわけではないし、「開かれる」という言い方は、取ってつけたような感。
こういうことも、本の感想(レビュー)と共に「日記」に書く内容になるんだけど。
ツイッターにも書いた内容だと、世代というのがあって、それは幼少から10代の間に決定される、集団のありかたがあって、各世代集団との連結みたいな、ひとつの世代集団の尻尾と次世代集団の頭がカチャンと列車みたいに連結しているんじゃなくて、連結されないで、だけど同時代を生きているというところ。
そんなこんな。
こちらは、日々の日記。体調は、良いとは言えない。口内炎が治らないし。
さっき、友人Nが、ひっさしぶりに、インターホン鳴らして「ひさしぶりー、今度あらためてゆっくりおじゃまするから」と、仕事帰りだから、やや疲れているようだった。玄関先であいさつして別れた。卵6入1ケースをいただいた。
人間、変わらないもんだから、つい「すいません、すいません」私は、自分で何を謝ってるのか分からない。
「髪切ったの?いいね」と言うから
「あ、これ、すいません、あ!・・・」
と、こうなる。なんだか、こうなる。
仕事する人が一番・・・みたいな、順位付けがあるからかな?と自分で思う。
なんで、あんな(こんな)落ち着きのない人間になるんだろう??
11月29日 宮台真司氏が暴漢に襲われた
ついさっきのニュース。事件は、午後7時台らしい。宮台真司氏といえば、私には著名で有名人なので。やはり、驚いた。
芸能人や海外有名人でも、訃報などニュースになっても、ピンとこないことのほうが多いほうなので。
本当は、政治的なニュースも疎いほうだし。
言論人が、狙われるというのは、不穏だ。
昼過ぎ、髪を切りに行ったら、美容室というか、とこやさんというのか切ってもらうんだけど、いつもよりも、細かい切って残った髪の毛が、ひたいやら顔面に残っていていやだった。
いつもは、たいがい女の人なんだけど、何と言っていいのか、一番最初の時は、店長らしき男の人だったんだけど。たしか、店長らしき男の人は、もっとカットが上手いと思ってたんだけど。髪は伸びるからいいけど。
11月25日 ニシン漬け、あと4日待つ。友人の部屋の窓が開いていた
隣人である友人Nも私も、当然なんだけど、親が生きているということは、親である皆々高齢なわけで、友人は毎週、JR快速1時間をかけて御両親のいらっしゃる地元に帰って、家事手伝いをしている。で、初冬でありながら、生あたたかな晴れた午前中、友人の部屋の窓が半分開いていたので、「いるんだなー」なんて思って、通り過ぎた。
いろいろ、つまらぬことを世話焼きみたいに想像させられてはいる。
だって、ホントに、親の死に目に会うということが、目的になるんだ。最重要目的化するとしてみると、それは、生きている間に、誰かに自分の話を聞いてもらいたい、と言う人生のピークみたいな時があって、何の話かというと、全人生のうちの大半の時間をおおっていることがらについてではないんだ、ということ。人生の間にトイレにこもっている時間が何百時間もあったとしても、そのことじゃないんだ。それは何であって、何ではないのか、ということをつくづく思い知らされるようなこと。
大半のこととは、日々の胃腸の具合だとか吹き出物が消えたり出たり、どんな薬が効くだとか、誰かの家は家庭不和だとか、誰それはついに身寄りがいなくなっただとか。そうは言っても、大半のことっていうのは、生活の中の事細かで雑多なことなんだと言いたいわけじゃない。始終気掛かりにしているのに、結局は後回しになること。たとえば、こうやって座っていながら、今日はそうでもないけど、おならが出て、ガスっぽい、ゴロゴロの後にブーブー出る、という時がある。半日は、何をしていてもお腹の調子を気にかけ続けている。
常に気にかけていながら、最終的に後回しになる、それなのに人生のうちの大半のことっていうのは、言葉にはし難い。
ニシン漬け、まだ塩っぱかった。しょっぱすぎると思う。
11月23日ニシン漬けとポテト&鶏肉スープ
この絵は、後々になってもわりと自分でも好きな絵。キング・ムーというディスコがあって、
今もDJパーティなど、イベントやってるはず。とにかく、青というのは気持ちのいい色だな。
わりとすきな絵、それとか、自分で何考えていたのか訳わからない絵、非常に胸が押しつぶされる気持ちになる絵というのも、ある。
感じはいいのに、好みなのに感触がどうもうけつけない絵、積極的に嫌いたくはないけど、という絵もある。嫌いになる絵ってのは、どんなのかな?それを選ぶのは難しいかもしれない。
「絵」について、全般について言えば。
この絵は好きだな・・・・。
ところで、ニシン漬け、身欠きニシンの下ごしらえが、めっちゃ時間はかかるし、骨取るのが、そうそう簡単じゃなかった。あんなにいっぱい骨取ってたら、身がボロボロになる。だけど、ユーチューブでは、下処理後のニシンがきれいに、背の皮が銀光りしていて、形もそのままだし。あれは、ちょっと、熟練が必要。ニシンの大きさが、1センチくらいの大きさに、切ってしまうから、なんとか、それなりの体裁だけど。売り物の、あんなきれいなニシン漬けのニシンには、ならない。味付けは、分量計って、入れてるから、あれでいいんじゃないかなと。
あとは、味が整うのを待つだけ。キャベツ、少なかったから、キャベツ足すつもり。
ポテト&鶏肉スープは、ツイッターで、ポテトスープを、ポテトと肉を塩入れて、徹底的に煮込むだけと紹介していたのを読んだので。この調理法は、困窮した場合や材料に乏しい場合、応急の調理法なのにばつぐんにおいしいとコメントがあった。ウクライナ地方か、むこうの調理法らしい。
イオン、ブラックフライデーのセール期間で、むっちゃ混んでいた。駐車場に誘導の係員が、要所々々に配属されて、各人が忙しそうだった。ブラックフライデーって、なんだったっけ?
11月18日
絵の中に「this is Abe」と書いてしまったので、釈明をひとつ。
・・・・・・・・考えれば考えるほど、This is・・・って、失礼なって感じ。でも、書いてしまっていた。
夢の中で、ラジオDJが、DJプレイ・パーティ会場で、MCながら、状況を解説してくれている・・・という、夢を見たんだ。
医者である阿部さんに恨みはないんだった。
それを言うと、綻びからボロボロ、というのか、**な医者って、山のようにいるし。ここで阿部さんて誰みたいな話だし。阿部さんは、私は誠実なお医者さんだと思っているし、ある人から相談を受けた時に「こういう医療センターみたいなところでこういう先生がいますよ」と紹介したこともあった。言いたいのは、山のようにいる*ソな医者、**、そんなことに死ぬまで拘っているのは、人生もったいないことだ。しかし、考え方としては、医者って、いろんな職業以上に、人間の**は居るだろうな、ってな。
午前は父の病院へ、付き添い。
昼から眠たくなってしまった。そうだ、ツイッターに姿形が似ているメモアプリがあって、¥160円で、私はぼやきが多いから、そっちでぶつぶつ、メモしておくのがいいかな、と考えたんだけど、課金してチャリンって音がした後、なんだか後悔して、嫌な気持ちで午後夕方まで過ごしてしまった。
『レヴィナスの時間論』を最初から再び読み始めたんだ。書評も、著名な学者のを2つ、これまで読んだわけだし、「ああ、そうかー・・・」と、学者ならではの、そういうのは感じられる、書評というのか、案内にはなっているけど、感想みたいには書かないんだ。学術的な言い得ることはあるだろうけど、披瀝はしない。それはなぜかというと・・・・という感じで読めた。
学者として、飛び越えたいところと飛びすぎてはいけないところがあるんだ、おそらく。
それを許すかどうか、なにせレヴィナスという人はもう亡くなっているから。それに、内田樹という人は、実際にレヴィナスに会って、深く感銘して、本当はレヴィナスについて書くことは自由であるはずなのに、まあそういうものだというところ、なんだ、たぶん。
学者のやりとりがあるんだ、たぶん。たぶん、人の内面には介入してはいけないんだ。
たぶん、私は「なんだかわからない」という書き方はしないんだ、それの自由を自分に許そうとしているんだ。
鼻炎なんて、狭い都会病だ。成人病とか、環境が狭いんだ。たいして都会の空気を吸ってるわけではないのに。
鼻炎って、重い症状ではないけれど、それでも行動制限するよなあ。
昨日の、11月16日の続きのブログは、こっちにしたかったのに。そのページだけ。移動したかったけど、機能がないようだ。探したんだけど。どこか、クリックしたら、コピペ、ぴょんと飛べる、とか。コピペすればよかった。
思いつかなかった。
あちらは、たとえば、「本の感想」とか「レビュー」みたいな、そういう長文を書くつもりでいるんだ、あっちは。こっちは、日記にしたんだ。
11月17日昨日の書き残したことと今日
今日は、昨日夜残して冷えたコーヒーに牛乳を足して飲んだら、お腹が痛くなった。
それで、昼まで寝ていた。お腹のもたれ感といい、顔やなんとなく、背中あたりの、辺りが・・・としか言いようのないかゆみ。更年期の身体の熱っぽさというのか、1日曇った日のためなのか、天気は大いに体に差し障る。
気弱になった老年期の特有の不定愁訴のような、それなんじゃないかと、思ったりする。
1日おきにそんなことばかり考えるし、考えないわけにいかない当然だろうし。
子供だって、考えるだろうけど、今となっては子供の頃のことは忘れているからだ。自分の状態について無頓着な子供は、病的な無頓着さでなければ、子供だってそんなものだ。だけど、子供は、めったにそこんところがテーマにならないだけだ。
そんなんで、昨日は、自分の状態のことも話の中で触れたんだ。
「医者だってわからないと思うよ。4〜5年先の話ではないんだ。私の予想だけど、10年くらい先は、急変することもあり得ると考えているんだ。寿命を宣告されたわけではないよ、ただ、医者にだって、わからないのさ。そこが難病だっていうことでもあると、思ってるんだ。わからないのさ。予想だよ」
と、説明すると、友人Tは、顔を曇らせるような、脱力した視線がふっとよぎる。
友人Tの真実味のあるところは、そんなときだ。
こんなことで、寂しい気持ちにはさせたくないけど。
そんな話をした。