Devilrainbowのブログ

変なIDと思われるでしょうが、こうなりました。1962年生まれです。

12月13日 否定を極めると、或るイデオロギーにたどりつくだろうか?

クリスマス・シリーズ

クリスマス・シリーズは、こうやって、ひとを苛つかせるかのような画が、実は多かった。私の性質でしょう。有刺鉄線に組んである材木が、なぜか、漫画でみる犬が咥える、骨になっている。頭部が、コーヒーカップ仕様。

 

すごく根本的に、自分がどう見られたいかと考えると、それは他人にどう思い出されたいかということで、それは極端にいうと、他人からはそれ以外に自分について記憶にとどめるとか、思い出に残るというようなことを拒否するというような、その記憶自体について言及するようなことで、それは自意識の事と、たいがいはそちらのジャンルに振り分けられるだろうと思いますが。身近な人間関係だけで、人生の大半を過ごしているとすると、さまざまな思い出話や、さまざまなエピソード記憶を身近な人から聞く機会があると、それが、もしも自分だとしたら他人の記憶の中では、自分はどんな姿かたちだったらいいだろう?と考えることは、ごく自然にあることで、端的に直結させてしまうと、そこが結論ではなくて発端みたいなものなんだけど、それはイデオロギーなんではないかな?と思った。

それは、ひとに褒めてもらいたいエピソードが欲しいというのではなくて、かといって、ひとから陰口を叩かれる、そこの中身の常連であったとしても、どちらにしても自分は、そうやって他人についての事細かなうんちくや、他人本体への言及をそこで披露している、当の主体間である寄り合い界隈には、自分はいないとする。そうやって、そうではない、ああでもこうでもないと否定する。それでは自分はどこにいるんだろう?と考えた時、他人(他者)を想定しての総論になる。

どこにいるんだろう?という疑問は、そうすると「そこはどこだ?」という疑問になる。

イデオロギー」という、総覧の締めくくり(元締め)みたいな語は、意識的で集合的、社会で人々を結びつけるというよりも、意図して人々を選り分ける思考の道具みたいな、社会動物が社会に持ち込む極め付けみたいな。だから、個人的にひとりの、市井の誰それとしての私などが、友人知人から、あんなふうに思われたくないな、とか。その、あんなふうにとかこんなふうに、どう思われたいかということよりも、むしろ消極的に、つまり消去法みたくしていくと、それって「コレ」っていう何かが有るのか?というほど、些細に思えるものかもしれない。そこで、些細に思えるかもしれないけれど、それはイデオロギーなのではないかな!?と、思う。

イデオロギー」の語が、総覧の締めくくり(元締め)の語みたいになっているので、そこの枝葉に連なるイデオロギー、例えば自由主義マルクス主義や、リベラリズム、右翼左翼も全般について、個人感情とは次元を異にしなければならない、たぶん、そう思われるのが一般的なんだ。たぶん、おおよその人は、そう考えることの方を正解としているんじゃないだろうか。

個人の個人的な記憶について、それはイデオロギーだと認識するのと、いっぽうでは、個人的な経験と思考によるのとは別なルートが有るとしての、社会的、主に政治運動の動機みたいな、そこの考え方についてをイデオロギーと、おおやけにいう時があって。

 

イデオロギーの発端というのは、「〜ではない」という、否定から入るように思える。なぜだか?どういうことかというと、私は机上の空論の実在というのを信じようとしているし。「机上の空論」というのは、言い方のひとつにすぎなくて、空論にも意義はあると思う。座学というのも、そういう、議論中の議論、思考実験ともいえる議論には意義があるということに賛成するので。

ひとつの方向は、否定に次ぐ否定で。否定が重なると、たいがいそれを受けた者の行動は制限されて、プラス思考の側から見ると、試行錯誤の痕跡も見出せないような、埋没感があるだろうか。そうだとしても、否定に次ぐ否定があったとしても、実際のその者がこうむる経験というものは、全貌を文章でとらえようとすると、どこかが文脈や文章、文からはすりぬけてゆく。

絶対的な不一致について、それをこそ明らかにしたい、光の下にさらしてやりたいと、飽くなき苦悩と苦心にやみつきになるのは、それがイデオロギーだからなのか。

個々の経験というのは、時間を共有する時代性やそこの人間関係による影響なしでは、起こり得ないのだから、まったく単独で発想されて、それがコテコテに凝り固まってイデオロギー化するんだと、いいたいわけではない。

それで、私が日々軋轢のように感じ人知れず抵抗しているのは、そこには私が否定するイデオロギーが直に霧のように存在し、そして私が、心の中で、その界隈の粉砕を試みているとすると、その思考方法がイデオロギーなんだ。

それは、対称的だからという、抵抗としてあるのではなく「それは、どこか?」という、

無意識的に醸成されたものと、意識的なものの違いに依拠する思考の方法。