12月13日 本を3冊買う。3ヶ月に一度の歯のクリーニング
歯のクリーニング終わって、夕方4時だったので、札駅に向かって散歩することにした。何度か、歩きたくないというのか、どーしよーどーしよー・・・と、立ち止まってしまった。
用もないのに、というわけでもないし、でも、歩くのが億劫になって。でも、下向きながら歩いているうちにリズムも出てきて、いつもの調子になった。
いつもの調子、というのは歩いていると、家にいると考えなかったようなことを、歩きながらつらつらと考えて、それで歩き続けていられる。承認(欲求)じゃなくて、承認してもらおうというのではなくて………
・・・こんなふうに。帰ってきて、サラダ作ったりゴハン炊いているうちに、思い出したらサッと、「承認じゃなくて」の後を忘れ去った。思っていることが、メモされていくなら、頭の中の信号のような対話は、よどみなく字面へと翻訳されて行っているはず。考え事をしている時というのは、たとえるなら動画のスピード感に思う。メモ帳でも取り出したなら、それで違うことなる。
おまけに、私は、文となると、そこの尾鰭背鰭に自分で自分に差し障ってくる。
会話みたいな心地よさフレンドリーとかの、そちらに重点のあるイメージではなくて、対話。一部は長ゼリのように。でもセリフじゃないし。
宮沢賢治の、詩について、ずっとまるで宮沢賢治と語り合っているようにしていたことがあった。頭の中で、タクシー運転手の時に、
冬、日勤の朝方、日曜日だったから、1時間以上は交差点角で待機していたときだった。南4条西2丁目、一方通行でサブロク線に頭を向けて角から2番目にいて、ずっと宮沢賢治と話しているような気がしていた。「わかった」と、最終的に言ったんだ、「自己犠牲とは何かが、わかった」
自己犠牲精神には、今もかつても懐疑的に思っているから、自己犠牲の捉え方を、だったか?
1時間、2時間もいただろうか。そこの角の先頭になって、・・・その時は、そうだった。
最近は、自分の実家の親のことばかりを考える。
「この家は、そうなんだよ、こうなんだよ」と、話しをしている。
「これからどうなったにしてもだよ。何にしても、モイチさんが期待した通りに、お母さんは成し遂げたんだから」というような。
歩いている時は、穏やかな調子で話をしている。
洗濯の準備も午前中にした。購入予定していた本、新書三冊を紀伊國屋で買ってきたし。
『アリストテレスとアメリカ・インディアン』L . ハンケ / 著
がんばってください。
はい。
スヌーピー70周年記念のノート買ったんだ。
『福音と世界』2023年1月号、届いた。
早い。早すぎる。
これから、ブログのおわりには「がんばってください」「はい」でしめようかな。