Devilrainbowのブログ

変なIDと思われるでしょうが、こうなりました。1962年生まれです。

12月30日 「 腹切り(切腹)思想」について考える

クリスマス・シリーズ

クリスマス・シリーズの、こちらは芝居『夕日のきれいな朝日荘』をイラスト化した5枚のうちの1枚

 

「腹切り思想」は嫌い中の嫌い。と、ツイッターに書いたんだった。

好き嫌いで、思想が勃興したり消滅したりするわけがないので、それを、たとえていうなら、「生きるか死ぬか」をテーマとして、「生きるか死ぬか」は嫌い、は、それはないだろう。

「腹切り思想」は、「死に方」ではあるけれど、日本人の階級制度下の「生きるか死ぬか」についての思想であるのだから、

それならば・・・・と、考えた。

 

まだ20代の頃。私は、専門学校を出たばかりで、イラストを描いたり、デザイナーの下請け作業を請け負ったりして、名刺に、デザイナーとかイラストレーターとかを肩書きにして、それなりに自力で収入になっていた時期だった。

私は友人から、一枚のファックスをもらった。

「学校時代の人で、あなたをよく言う人はひとりもいません。あんな人とどうして付き合うの?って言われます」

私は仰天して、手が震えたのだった。恐怖感がゾーッと立ち上がるという感じだった。

だけど、その日のうちに仕上げなければならなかった作業があったので、震える手で、どうにか、翌日には営業担当に渡せるように、とにかく動悸を抑えられないままに、一睡もしないでようやく仕上げるだけは仕上げた。そして、友人として、私は、夜のあいだじゅう震えの収まらなかった手で、反論めいた何か、とにかく何かを書いてファックスで送った、ということがあった。

私とその友人とは、日々、短文を書いてファックスで送る事で、今のメールやチャットのように気楽に交信し、たまに会っておしゃべりをしていた。

 

「嫌い」というと、最近の精神分析の本を読むと、「嫌われるのが怖い」という、若者の深く傷ついてしまう理由、病的にもそれがあるらしい。

私は、「病い」としてのそんな説を聞いても、今になっても人ごとではなく度を失うほどの時がある。何かくどくど考え出したら、「嫌われているんじゃないだろうか?」と直結する思考回路にはパターンがあって、考えごとの全部が全部妄想だとはいえないまでも、そちらにはまり込みがちになる。

病的にまでと思えるのは、たとえば、人の仕草であるとか、話している時の、相槌を打つでもない、口を挟もうとするでもない、無音に近いほどの沈黙など、その時の別れ際の様子はどうであったかとか、何から何までが、「私を嫌っているからだ」という、自分自身についての自己診断と共に、わらわらとわいてくる。にこやかに笑っていてくれないと、「私を嫌っているからだ」と、理由から飛び込んで来るかのようだ。

でも、そんな神経症ふうには、私は側から見えてはこないと思う。

 

「人には、皆、二面性があります」

ツイッターの投稿から引用した。

 

引用しなくてもどこかにありそうな。

私の父には、二面性がある。私にも二面性がある。私の母には、二面性が見られない。

現在の友人である、Nちゃんには二面性はない。Tちゃんは、あるようでないようにも見える。

もしも、「嫌われるのが怖い」ということに反応するのが若者のトレンドだとするなら、もしも人の二面性がなければ、日本の小・中・高、学校はどんよりして、病んだ空気がおおっているはずだ。

「嫌われる」ことで、そこまで追い込まれてしまうのは、嫌われたら生きていけないほど不安定な足場にいるということである。いっぽう、そう思い込む精神のほうが病んでいる。原因は、足場を問題とするか、「嫌われる」ことがその人の頭の中で一体全体何と直結しているのか。

私だって考える。

しかし、その昔、本当に度を失ってしまった私には、何かを考える余裕なんてなかった。少なくとも、あの日々、専門学校の生徒と先生が、全員敵になってしまった。敵味方の敵ではなくて、「皆」は私の完全に負け戦の敵であって、私は仕事からも人間関係からも葬り去られる。

そう思い込んで生きた心地がしないまま、なんとか平静を装って、仕事だけはこなす日々。

あの状態なら、今時のオレオレ電話・ネット詐欺にひっかかってしまったなら、誘導されるまま、操り人形のようになっていただろう。

私は、オドオドとして、もともと喋るのは苦手でもあったのが、会う人などに「この人も何か聞いてるのかな?」などと妄念で疑心暗鬼になりながら、時々は呆然と全人格が受動態思考の回路にはまり、時々は忘れただろうし。長い時間をかけて、二面性をやりくりして過ごす事になった。10年以上たってから、ようやく学校時代のことを話せる人に話せる機会があって、「みんなで噂でもしてた?」と切り出したのだった。それでも、ながいこと相当傷ついていたわけだから、話すことも2〜3言だった。一部分が氷解をした。

力強く言いたいが、全面的に氷解することなんてないんだ。しかしついに死ぬまで、そういう一件が黙殺されるというのは、いつしか耐え難いほどになるはずだ。いつか自分を追い詰める事になるだろう、そういうことだと思う。

「嫌いだ」というのは、全人類的な強度の評価を持って「生きるか死ぬかの」の決定権に直結してしまっている、そういうこともある。

それを全方位に向けて言うとしても、

生き死にの決定権を誰かに託したいとは、

本当のところは考えはしないはずだ。

自分自身は決定権の埒外とされるだろうか?

私は、そこには二面性で語らうような自分を想像は出来ない。

本当は、生きていたい。そこのところは、セオリーだ。

切腹」は「生きるか死ぬか」の問題であるはずなのに、自分自身を棚上げしてしまうかのようだ。

もうひとつの視点は、「切腹」は、いわゆる自死と同等か?とは考える。

同等だと勘違いしているのなら、時代劇にある大名やそこらに連なる武将だの面々は、自殺幇助のために現代ならば司法で裁かれることになる。

 

抗い難さ、というのは恐ろしい。

抗い難さが、恐ろしい。

たぶん、私はここのところは現代人なんだ。現代人が、時代劇で家臣が切腹するシーンで、ニタっと笑う、大名なんかが皮肉に描かれるのを、たとえば、映画で特攻兵士を送り出す上官が悪い奴に描かれるのを、とても納得して見ている。

切腹」には思想があったんだ、たぶん。しかし、まやかしの思想というのだってある。実情がそもそもそんなのばっかりだし、実際の自刃には思想ほどまでに研ぎ澄まされた行動は皆無だったろう。

「死への美学」はあったのかもしれない。

自分自身に決定権を預けるように見せかけて全員の決定権を剥奪するのが「生きるか死ぬか」の「切腹」問題だ。自分自身を埒外に置いておきながら美学に酔うとは、何もかもが、思想としての理を欠いている。

切腹」の実情こそは、美学であるはずがない。「切腹」理論が美学を装うためには麻薬めいた騙しがあったんだ。

 

そこで「嫌い」とは、何か?

切腹思想」が「嫌い」と言わせる「嫌い」とは?

精神分析では、好きと嫌いは交信しているようだ。

「嫌い」というのは、「嫌い」だという意味だけが・・・・・・・・地に染み渡る。

 

Amazonプライムで観た『東京オリンピック2020 SIDE:A』の中で、敢然と差別に抵抗する、アメリカ人陸上選手の姿があった。

「人種差別と闘う」ことで、「脅迫や殺人予告メールの通知が来るが、味方も多い、だからやっていける、自分を変えたくない」と、ドキュメンタリー映像の中でコメントをしている。

「嫌われる」「嫌う」ということが、政治的であれ、友人知人間における人間関係のゴタゴタであれ、問題の思考(回路)構造や政治的な構造が似ているのは、「現代人の切腹観」を問うよりは、むしろ現代的な「ヘイト・スピーチ」にまつわる問題だからなのかもしれない。

 

私は、ブログで、思想も承認を求めるがための文章術もグレードアップしたい。