Devilrainbowのブログ

変なIDと思われるでしょうが、こうなりました。1962年生まれです。

12月25日 クリスマスおめでとう!(それと「直観力」について)

クリスマス・シリーズ

劇団の芝居『夕日のきれいな朝日荘』のシーンをイラスト化した、5枚のうちのひとつ。

年内は、ちょうど一週間分、あと4〜5枚クリスマス・シリーズの絵があるので、そっちを投稿し続けることにしよう。

 

 

では、Twitterにながながと書き連ねたのを、そのままここに。以下。

 

どうしても、年齢的に、それを衰えなのか、それとも、衰えや経年劣化の類ではなくて、別な「転換」の何かの作用とみなすのかは未だ定まってはいないと思うのですが。

子供にみられる優れた能力である「直観力」は、モノに対して2〜3足跳びの「認知能力」とでもいうのか、直観力は、物理現象以上の正確さでモノ世界を解読させてしまう、それ以上の何か?「直観」世界が、浸透圧の世界対世界みたいに?現れたり、ただ有ったりするとか?数学には、数字や記号、ましてや言語では表し得ない、「直観」こそが埋め込まれている、と。私なんかは、そう思う。

つまり2〜3足跳びのほうが、ポルターガイストがどうしたとか量子力学がどうしたとかいうことよりも、私には、AIが人間を超えるとか超えないとかよりも、その存在感が証明され得ない、直観と直観力こそが不可解な現象なのだと、思える。

だけど、世の中の平常運転というのは、おおよそがその2〜3足跳びを標準仕様として進行しているように思える。それ以下だと、学校で学ぶ子供にしてみたら、知力理解を要する内容が標準であることが耐え難く退屈を感じるらしい。

とにかく、そのようであるみたいだ。できる子供にしてみれば、学校授業の進むのがおそく感じられて、算数の問題などは10分で解けてしまえるものを、授業中残りの30分、40分の時間が退屈だという。子供には、退屈ほど耐え難いことはないみたいだ。

退屈とか、反対に無我夢中とかはそれはそれとして、おくとして、「直観力」が鷹揚に飛び交う子供のやわらかな頭脳に、たとえば、言語みたいなのが挟まると、頭脳において言語が介在するということは、そういう高速回転の頭脳の、介在を受けるそこだけをピックアップすると、増幅されるということにはならない場合、むしろ自分を傷つけてしまう夾雑物みたいなことになってしまわないだろうか、ということも考えられたりしないだろうか?

極端に、仮に考えてみるとすると。

退屈になってしまう感覚があったとしても、言語が介在するために脆弱性というのもまた有るとして、そこの隙をつくように、何にでも言えることだけど、悪用されるのは避けて欲しいと願ってしまう。何にでも言えることだけど。

言語というのは、人間は言語によって助けられもするけれど、幾らでも言語によって踏み外しもするなかで、むしろ、踏み外した何かを一生かけて回収するという作業に向かうよう、哺乳類というのがそうなのかな?と、思えて来る。

言語がそういうことをさせているから、そうなってしまっている、と。

何が起きても、それは言語のせいにするつもり、みたいな。

哺乳類に特有の言語脳のせい、みたいな。

 

カラパイアだったか、質問アプリ・クオラだったかで、「「ニワトリが先か卵が先か」の決着は、ニワトリの足には昔、爬虫類だった名残の鱗状模様があるので「卵が先」と言えるでしょう」という回答があって、納得したんだけど。

つい、結論に、なんだか飛びつきたくなる時には、そんなところで。

 

結論をまとめると、言語を介させる言語脳があったとして、それは哺乳類にとっても、、前頭葉のまだまだ新しい脳の能力だろうから、そうだとしたら、人間は意外にも、その言語脳をフルに幼児期から酷使している、だろう。進化において、年代が現代へと降りてゆくにつれて、進化が加速度を増して行っているとしたら、なにぶんにも、加速がつくというのは、新らしめの、この場合は言語を司る脳の能力にかなり依存してしまっているから。

じゃないかなー。

まとめると、だから、言語脳というのは、脳の中であらゆる脳の能力に介在して、その分、

人間として、人生をおくる人間として哺乳類としても、踏み外しやすさが過大に高まる。

「リスク」と言いたいけど、リスキーだなんて、やだなー。経済的な考え方に寄ってしまうのはいけないな、と思って。

私のように、中年過ぎていよいよ高齢者になってくると、それにしても・・・・・・と、考えさせられる。

いったい、どこに、人間の中心みたいなのがあって、みんな勝手にそれぞれ2〜3足跳びなどをしているのにもかかわらず、まるで当たり前のように分かり合っているみたいで、そうすると、どこにそれを標準解とさせている、平均や中心があるのかな?と、考えさせられる。

私は、小説を読んでもそう思う。

小説家は、誰もが同じに読むわけがないと思っているはずだのに、どこかで解がありそうなことを打ち明けもする。

明らかに、どういうわけか、跳んでるだろ?という、でも誰もが言及するのはためらわれるような、たくらみがあるようにも思わせたりする。

 

小説は、わからない世界を楽しんでいるところもあるだろうな。

 

幼少期に刻まれる何かというのは、自分に起こったこと唯一性でもあるのだから、言語との出会いのことなのかも知れない、それは大いなる何かだったのかもしれないのと同時に踏み外しだったのかもしれない。いずれ、中年期を過ぎて老年期に向かって行くと、どうしたって、回収しようと、そういうことになる、人間は。

だから、子供時代は大切に。子供の心を忘れずに。

絶対に、老年期には回収すべき、ピラミッドかスフィンクスに立ち向かうことになる。

絶対に、普遍的に。

回収せねばならない事に気が付かされる。それはそれで、いいとしても、どうでもいいとまでは言わないけれど、どうでもいいくらい、人間はそのころには*ソまみれになっている。

だけど、子供の心は忘れずに。

イエス・キリストもそう願っているはず。

 

クリスマスおめでとう!

神様のご加護がありますように!