あの詩のフレーズは強烈だ
(トーマの心臓の記憶に基づいて書くとすると)
あの詩のフレーズは強烈だ
(トーマの心臓の記憶に基づいて書くとすると)
『トーマの心臓』というタイトル。こんな出会いは一生に一度か二度だろうな、と思う。
小説にもマンガにも、タバコのヤニ臭さや、二人部屋でのいびきや歯ぎしりも聞こえてこない。音をたてずにすすられる、ぬるいスープの、鉄製食器が音を立てる。口の中に鉄っぽい味はしない、とにかく、なんの味か。コーヒーやお茶。お茶会のお茶!
洗濯物はどうしてるんだろう?とか、汗混じりな埃くささもないし。つまり、日常がないんだ!
このような、カメラでいえば、シネマティックという画像、その時代にあってその年齢でしか可能にならない、捨象。
忘れちゃいけないような気がした。
とにかく。
それで、私は90近い母に、「中学生の頃読んだ本で、真っ先に思い出せる本って何?」と尋ねた。母はずっと、黙ったまま考えてから、わからないというような、曖昧な返事を返してから、また黙ったままだった。まだ、思い出そうとしていたようだった。
いろんな本を読んで影響を受けてきたはず。
『トーマの心臓』だと、最初の「詩」の中のフレーズ、「それから 僕が彼を愛したことが問題なのじゃない・・・・・」のフレーズ、「〜ではない」・・・・〜ねばならないのだ どうしても」このフレーズが、国語の応用問題みたいに、我知らずといった感じで、使おうとしてしまってしょうがない。
とにかく、そういうのがいっぱいある。
(それとか、・・・と、探してしまう)
そうやってさまざま影響を受けてきているはずなのに、(なんであんなふうな、)スマートな日本語にならないんだろう?と私は自分で、常々、『トーマの心臓』を読み返してからますます思うことになった。
森博嗣 小説版『トーマの心臓』はいろんな興味が湧いてきて、こちらは初めて読み始めた。
こんなふうに頭の中で始終話している、おしゃべりというのか、語っているというのか、こういう、眠っている時以外ずっと喋っている頭というのは、ある。これは大変疲労感がある。森博嗣という人は、きっとそういう人なんだろうと思う。
ずっと喋っているように思える。
(こうして、文書を短くしてみてもスマートとは思えない)
もう息切れしてるような気がする。
とにかく、一旦はその漫画を、本を閉じるように置いてから書き出している。
『トーマの心臓』最初の数ページを読んで、「わっ!」と思うほど、セリフがまるで翻訳調を感じさせた。
それでも、私は翻訳された詩集を読んだり、高校、大学と進学する頃にはなぜだか、トリスタン・ツァラが大好きで、それも日本語訳がとても好きで、そうやってかつては、小説や詩集でも日本語翻訳本を適当ながらたっぷり読んだので、萩尾望都のセリフに詩を感じたんだろう。
絵柄のことに着目すると(「絵柄」と言わずに何というのだろう?)セリフ世界の違和感がぼやけるし、セリフ世界について思考をし続けると、なぜだか違和感が消失してゆく。
そうやってすぐに慣れてしまうと、異国趣味なストーリーに引きずられてしまう。「異国趣味」などという言い方は、なんといっても肌感覚とは程遠い異国情緒のこととすると、10代の頃に読んだ『トーマの心臓』は、異国趣味だったのかもしれない。本当に「意識」が意識されない幼年期に、クリスマスのお祝いをしたり、プレゼントをもらったり、お経を聞いていたり、そういった風習には、道徳や倫理といった、正当性を主張できる人間の言葉が宿っていて、同時に罪や罰、地獄と極楽、天国と地獄も存在するんだぞという思想を空気のように吸っている幼年期を、たまたま未だ脱していなかった時分にたまたま出会った、異国趣味だったようにも思う。
かつて『トーマの心臓』を読んだ時と、今読んでいる時の間、そこの間に渡される50年間もの間に、とても強く思い出させられるのは、あれはドイツのどこだかの街の一角の、モノクロ写真を雑誌で見た時の衝撃。
衝撃は、自分の狭くて散らかしたままの部屋で、なんの雑誌か忘れて、でも、衝撃にも関わらず、やはりそんなものか、自分の軽率な行動は。他の古雑誌と一緒に捨ててしまった、一枚の写真。ドイツの、ああいうのはアパートメントというはず。電車が走っているような、小さく人々がぽつりぽつりと行き来しているような姿。それが、まるで故郷を思わせる懐かしさに、ドイツに行ったこともないので、自分がモノクロ写真を一目見て懐かしいと思わせられたのが衝撃だった。
ドイツ人の生まれ変わりか?なんて空想もちらっと思い浮かべるほどだった。
今のうち、感想でも何でも書いておきたいと思ったので。
たぶん50年ぶりに、その漫画を読み直した。萩尾望都の『トーマの心臓』
それで、何から書いておけば良いのか、私の頭の中は、まとまりがない。
中学生だった頃、何に引き込まれてなん度も読み返していたのか。私にすれば、そのころ読み漁っていた他の漫画本からは、萩尾望都という作家の絵柄は異質だったのかもしれない。友人に勧められたのかもしれない。
絵柄というのは、漫画というのは、1ページが、月刊週刊漫画本のサイズがA4であるならば、ページめくりのために手垢や指紋がしっかり着く四つ端の余白部分も含めての画サイズ。絵画で、Fの何号みたいな、あらかじめ設定された寸法という限定された条件がそれで。条件があって。そこの中に、コマ割りと、コマに収まることが条件で、キャラクターの強調されるスタイル、顔の表情、コマの合間合間に挟まる、独白のような小さかったり大きかったりのカット。ショットのような。それら、それで、それらが突如花束に囲まれて、いかにも欧風の小綺麗な。小綺麗で欧風というのが重要だったのは、私が中学生だったからかもしれない。私が中学生の頃は、英語ができるのがこれからの人生には最重要のようにも喧伝されていた。それは、アメリカ崇拝意識を醸成させる意図があってのことで。(こういうことをダラダラと書くのは横道にそれるんだけど。でも書くという行為は、このように横道へと、それらは水脈か。なぜだかそうなる。)
それらが、つまり1枚の画の中の、そのテクスチャー、黒、ベタというんだと思う。墨の多さ。それから、コマ割りに使う描線の多彩に見えること。蔦みたいな、葉っぱが縁取られて、隣のコマにまで葉っぱが侵入していたり、花が画面の半分を飾っていたり。そういうシーンがあると、1枚のデザイン画を感じさせる。キャラクターの顔の描線が、時々歪んで、表情を作って見えること。それらの多くが、というよりもかなり全部かもしれないほど、確かに見覚えがあって記憶に残っていることに、私は「そうだった」と、思い出した。
(つづく)

「哲学」というのは、固有のものか?という、疑問。広大で漠然として、しかしながら人間が人間の皮膚であるほどまでに近似し続ける、精緻な。喩えであるかのような、例えば「数学」のように。
喩えのように固有のものなんだろうか?まるで「死」とは?「生」とは?みたいな。
現代思想2026年2月臨時増刊号 特集=ハンナ・アーレントを、國分功一郎さんの「複数の人間、哲学者、善行を行う者」を、読んだ。他も心に残る論考もあって、で、こちらはキリスト教に関わる内容、アーレントの思想についての読みで。
と、それから直後、テレビで、ローマ教皇選挙のコンクラーベの、NHK特集番組を見た。
そうだ、カトリックは、とか、キリスト教は、そうだ。
そうだ・・・と、あの、数千年だかにわたる重圧、知恵の実、経済の独占、でもないか。
あの、食べるのに一度も困ったことのないような煌びやかさ。それがための、質素な生活から、
煌びやかさと質素な、というのが。そしてなぜだかわからぬ高揚感を人間にもたらす、群衆に。規律や装いの豪華さ。何と何を並べればいいのかがわからない。
神がかったBGM。キリスト教音楽は、まあそうだ。
あの、ミケランジェロだかの天井いっぱいの壁画。
ハンナ・アーレントもそんな、要はすごい典礼みたいな、見たことがあるんだろうか?
全然関係ないだろうか?
ユダヤ教は、また違うだろうけど。ユダヤ教には、「コル・ニドライ」という曲が、それはまたある。
どう思っただろうか?
全体主義というのは政治思想だ。
あの、ああいう、あのような知性と重責で完璧に防御された、ひとつの全体主義思想。宗教ではあるけどどう思ったんだっただろう?