Devilrainbowのブログ

変なIDと思われるでしょうが、こうなりました。1962年生まれです。

12月30日 「 腹切り(切腹)思想」について考える

クリスマス・シリーズ

クリスマス・シリーズの、こちらは芝居『夕日のきれいな朝日荘』をイラスト化した5枚のうちの1枚

 

「腹切り思想」は嫌い中の嫌い。と、ツイッターに書いたんだった。

好き嫌いで、思想が勃興したり消滅したりするわけがないので、それを、たとえていうなら、「生きるか死ぬか」をテーマとして、「生きるか死ぬか」は嫌い、は、それはないだろう。

「腹切り思想」は、「死に方」ではあるけれど、日本人の階級制度下の「生きるか死ぬか」についての思想であるのだから、

それならば・・・・と、考えた。

 

まだ20代の頃。私は、専門学校を出たばかりで、イラストを描いたり、デザイナーの下請け作業を請け負ったりして、名刺に、デザイナーとかイラストレーターとかを肩書きにして、それなりに自力で収入になっていた時期だった。

私は友人から、一枚のファックスをもらった。

「学校時代の人で、あなたをよく言う人はひとりもいません。あんな人とどうして付き合うの?って言われます」

私は仰天して、手が震えたのだった。恐怖感がゾーッと立ち上がるという感じだった。

だけど、その日のうちに仕上げなければならなかった作業があったので、震える手で、どうにか、翌日には営業担当に渡せるように、とにかく動悸を抑えられないままに、一睡もしないでようやく仕上げるだけは仕上げた。そして、友人として、私は、夜のあいだじゅう震えの収まらなかった手で、反論めいた何か、とにかく何かを書いてファックスで送った、ということがあった。

私とその友人とは、日々、短文を書いてファックスで送る事で、今のメールやチャットのように気楽に交信し、たまに会っておしゃべりをしていた。

 

「嫌い」というと、最近の精神分析の本を読むと、「嫌われるのが怖い」という、若者の深く傷ついてしまう理由、病的にもそれがあるらしい。

私は、「病い」としてのそんな説を聞いても、今になっても人ごとではなく度を失うほどの時がある。何かくどくど考え出したら、「嫌われているんじゃないだろうか?」と直結する思考回路にはパターンがあって、考えごとの全部が全部妄想だとはいえないまでも、そちらにはまり込みがちになる。

病的にまでと思えるのは、たとえば、人の仕草であるとか、話している時の、相槌を打つでもない、口を挟もうとするでもない、無音に近いほどの沈黙など、その時の別れ際の様子はどうであったかとか、何から何までが、「私を嫌っているからだ」という、自分自身についての自己診断と共に、わらわらとわいてくる。にこやかに笑っていてくれないと、「私を嫌っているからだ」と、理由から飛び込んで来るかのようだ。

でも、そんな神経症ふうには、私は側から見えてはこないと思う。

 

「人には、皆、二面性があります」

ツイッターの投稿から引用した。

 

引用しなくてもどこかにありそうな。

私の父には、二面性がある。私にも二面性がある。私の母には、二面性が見られない。

現在の友人である、Nちゃんには二面性はない。Tちゃんは、あるようでないようにも見える。

もしも、「嫌われるのが怖い」ということに反応するのが若者のトレンドだとするなら、もしも人の二面性がなければ、日本の小・中・高、学校はどんよりして、病んだ空気がおおっているはずだ。

「嫌われる」ことで、そこまで追い込まれてしまうのは、嫌われたら生きていけないほど不安定な足場にいるということである。いっぽう、そう思い込む精神のほうが病んでいる。原因は、足場を問題とするか、「嫌われる」ことがその人の頭の中で一体全体何と直結しているのか。

私だって考える。

しかし、その昔、本当に度を失ってしまった私には、何かを考える余裕なんてなかった。少なくとも、あの日々、専門学校の生徒と先生が、全員敵になってしまった。敵味方の敵ではなくて、「皆」は私の完全に負け戦の敵であって、私は仕事からも人間関係からも葬り去られる。

そう思い込んで生きた心地がしないまま、なんとか平静を装って、仕事だけはこなす日々。

あの状態なら、今時のオレオレ電話・ネット詐欺にひっかかってしまったなら、誘導されるまま、操り人形のようになっていただろう。

私は、オドオドとして、もともと喋るのは苦手でもあったのが、会う人などに「この人も何か聞いてるのかな?」などと妄念で疑心暗鬼になりながら、時々は呆然と全人格が受動態思考の回路にはまり、時々は忘れただろうし。長い時間をかけて、二面性をやりくりして過ごす事になった。10年以上たってから、ようやく学校時代のことを話せる人に話せる機会があって、「みんなで噂でもしてた?」と切り出したのだった。それでも、ながいこと相当傷ついていたわけだから、話すことも2〜3言だった。一部分が氷解をした。

力強く言いたいが、全面的に氷解することなんてないんだ。しかしついに死ぬまで、そういう一件が黙殺されるというのは、いつしか耐え難いほどになるはずだ。いつか自分を追い詰める事になるだろう、そういうことだと思う。

「嫌いだ」というのは、全人類的な強度の評価を持って「生きるか死ぬかの」の決定権に直結してしまっている、そういうこともある。

それを全方位に向けて言うとしても、

生き死にの決定権を誰かに託したいとは、

本当のところは考えはしないはずだ。

自分自身は決定権の埒外とされるだろうか?

私は、そこには二面性で語らうような自分を想像は出来ない。

本当は、生きていたい。そこのところは、セオリーだ。

切腹」は「生きるか死ぬか」の問題であるはずなのに、自分自身を棚上げしてしまうかのようだ。

もうひとつの視点は、「切腹」は、いわゆる自死と同等か?とは考える。

同等だと勘違いしているのなら、時代劇にある大名やそこらに連なる武将だの面々は、自殺幇助のために現代ならば司法で裁かれることになる。

 

抗い難さ、というのは恐ろしい。

抗い難さが、恐ろしい。

たぶん、私はここのところは現代人なんだ。現代人が、時代劇で家臣が切腹するシーンで、ニタっと笑う、大名なんかが皮肉に描かれるのを、たとえば、映画で特攻兵士を送り出す上官が悪い奴に描かれるのを、とても納得して見ている。

切腹」には思想があったんだ、たぶん。しかし、まやかしの思想というのだってある。実情がそもそもそんなのばっかりだし、実際の自刃には思想ほどまでに研ぎ澄まされた行動は皆無だったろう。

「死への美学」はあったのかもしれない。

自分自身に決定権を預けるように見せかけて全員の決定権を剥奪するのが「生きるか死ぬか」の「切腹」問題だ。自分自身を埒外に置いておきながら美学に酔うとは、何もかもが、思想としての理を欠いている。

切腹」の実情こそは、美学であるはずがない。「切腹」理論が美学を装うためには麻薬めいた騙しがあったんだ。

 

そこで「嫌い」とは、何か?

切腹思想」が「嫌い」と言わせる「嫌い」とは?

精神分析では、好きと嫌いは交信しているようだ。

「嫌い」というのは、「嫌い」だという意味だけが・・・・・・・・地に染み渡る。

 

Amazonプライムで観た『東京オリンピック2020 SIDE:A』の中で、敢然と差別に抵抗する、アメリカ人陸上選手の姿があった。

「人種差別と闘う」ことで、「脅迫や殺人予告メールの通知が来るが、味方も多い、だからやっていける、自分を変えたくない」と、ドキュメンタリー映像の中でコメントをしている。

「嫌われる」「嫌う」ということが、政治的であれ、友人知人間における人間関係のゴタゴタであれ、問題の思考(回路)構造や政治的な構造が似ているのは、「現代人の切腹観」を問うよりは、むしろ現代的な「ヘイト・スピーチ」にまつわる問題だからなのかもしれない。

 

私は、ブログで、思想も承認を求めるがための文章術もグレードアップしたい。

 

 

 

 

12月25日 クリスマスおめでとう!(それと「直観力」について)

クリスマス・シリーズ

劇団の芝居『夕日のきれいな朝日荘』のシーンをイラスト化した、5枚のうちのひとつ。

年内は、ちょうど一週間分、あと4〜5枚クリスマス・シリーズの絵があるので、そっちを投稿し続けることにしよう。

 

 

では、Twitterにながながと書き連ねたのを、そのままここに。以下。

 

どうしても、年齢的に、それを衰えなのか、それとも、衰えや経年劣化の類ではなくて、別な「転換」の何かの作用とみなすのかは未だ定まってはいないと思うのですが。

子供にみられる優れた能力である「直観力」は、モノに対して2〜3足跳びの「認知能力」とでもいうのか、直観力は、物理現象以上の正確さでモノ世界を解読させてしまう、それ以上の何か?「直観」世界が、浸透圧の世界対世界みたいに?現れたり、ただ有ったりするとか?数学には、数字や記号、ましてや言語では表し得ない、「直観」こそが埋め込まれている、と。私なんかは、そう思う。

つまり2〜3足跳びのほうが、ポルターガイストがどうしたとか量子力学がどうしたとかいうことよりも、私には、AIが人間を超えるとか超えないとかよりも、その存在感が証明され得ない、直観と直観力こそが不可解な現象なのだと、思える。

だけど、世の中の平常運転というのは、おおよそがその2〜3足跳びを標準仕様として進行しているように思える。それ以下だと、学校で学ぶ子供にしてみたら、知力理解を要する内容が標準であることが耐え難く退屈を感じるらしい。

とにかく、そのようであるみたいだ。できる子供にしてみれば、学校授業の進むのがおそく感じられて、算数の問題などは10分で解けてしまえるものを、授業中残りの30分、40分の時間が退屈だという。子供には、退屈ほど耐え難いことはないみたいだ。

退屈とか、反対に無我夢中とかはそれはそれとして、おくとして、「直観力」が鷹揚に飛び交う子供のやわらかな頭脳に、たとえば、言語みたいなのが挟まると、頭脳において言語が介在するということは、そういう高速回転の頭脳の、介在を受けるそこだけをピックアップすると、増幅されるということにはならない場合、むしろ自分を傷つけてしまう夾雑物みたいなことになってしまわないだろうか、ということも考えられたりしないだろうか?

極端に、仮に考えてみるとすると。

退屈になってしまう感覚があったとしても、言語が介在するために脆弱性というのもまた有るとして、そこの隙をつくように、何にでも言えることだけど、悪用されるのは避けて欲しいと願ってしまう。何にでも言えることだけど。

言語というのは、人間は言語によって助けられもするけれど、幾らでも言語によって踏み外しもするなかで、むしろ、踏み外した何かを一生かけて回収するという作業に向かうよう、哺乳類というのがそうなのかな?と、思えて来る。

言語がそういうことをさせているから、そうなってしまっている、と。

何が起きても、それは言語のせいにするつもり、みたいな。

哺乳類に特有の言語脳のせい、みたいな。

 

カラパイアだったか、質問アプリ・クオラだったかで、「「ニワトリが先か卵が先か」の決着は、ニワトリの足には昔、爬虫類だった名残の鱗状模様があるので「卵が先」と言えるでしょう」という回答があって、納得したんだけど。

つい、結論に、なんだか飛びつきたくなる時には、そんなところで。

 

結論をまとめると、言語を介させる言語脳があったとして、それは哺乳類にとっても、、前頭葉のまだまだ新しい脳の能力だろうから、そうだとしたら、人間は意外にも、その言語脳をフルに幼児期から酷使している、だろう。進化において、年代が現代へと降りてゆくにつれて、進化が加速度を増して行っているとしたら、なにぶんにも、加速がつくというのは、新らしめの、この場合は言語を司る脳の能力にかなり依存してしまっているから。

じゃないかなー。

まとめると、だから、言語脳というのは、脳の中であらゆる脳の能力に介在して、その分、

人間として、人生をおくる人間として哺乳類としても、踏み外しやすさが過大に高まる。

「リスク」と言いたいけど、リスキーだなんて、やだなー。経済的な考え方に寄ってしまうのはいけないな、と思って。

私のように、中年過ぎていよいよ高齢者になってくると、それにしても・・・・・・と、考えさせられる。

いったい、どこに、人間の中心みたいなのがあって、みんな勝手にそれぞれ2〜3足跳びなどをしているのにもかかわらず、まるで当たり前のように分かり合っているみたいで、そうすると、どこにそれを標準解とさせている、平均や中心があるのかな?と、考えさせられる。

私は、小説を読んでもそう思う。

小説家は、誰もが同じに読むわけがないと思っているはずだのに、どこかで解がありそうなことを打ち明けもする。

明らかに、どういうわけか、跳んでるだろ?という、でも誰もが言及するのはためらわれるような、たくらみがあるようにも思わせたりする。

 

小説は、わからない世界を楽しんでいるところもあるだろうな。

 

幼少期に刻まれる何かというのは、自分に起こったこと唯一性でもあるのだから、言語との出会いのことなのかも知れない、それは大いなる何かだったのかもしれないのと同時に踏み外しだったのかもしれない。いずれ、中年期を過ぎて老年期に向かって行くと、どうしたって、回収しようと、そういうことになる、人間は。

だから、子供時代は大切に。子供の心を忘れずに。

絶対に、老年期には回収すべき、ピラミッドかスフィンクスに立ち向かうことになる。

絶対に、普遍的に。

回収せねばならない事に気が付かされる。それはそれで、いいとしても、どうでもいいとまでは言わないけれど、どうでもいいくらい、人間はそのころには*ソまみれになっている。

だけど、子供の心は忘れずに。

イエス・キリストもそう願っているはず。

 

クリスマスおめでとう!

神様のご加護がありますように!

 

 

 

 

『君の名は』をアマゾン・プライムで観る(12月17日)①

2016年公開 新海誠 監督アニメーション。

映画の最後に流れる、あの、名前、ズラーーーっと続く、製作者、アニメーター方々の名前を、映画映像の終わりには必ず出て来るいつもの風景の、あのズラーーーっと、荘重に流れるたくさんの人々の名前を見ているうちに、「若かったら、こんなアニメ観たならアニメーターになりたい!って、思っただろうな」

「若かったら・・・」と、そう思った。

ついにその境地が、率直に思う日が来た。

主人公少女の三葉のお祖母様が、語りべ然とした、いかにもなキャラクターの、あのようなおばあさんの語りべの口調で話し出すのを、大正生まれの私の祖母の話し声と、難なく重ね合わせることができる。

そのやわらかな特徴的な口調。

 

そういう世代なのかな、時間を語るおばあさんは大正生まれ「世代」なのかな。祖母とか曽祖母とかのイメージが、すべからくそうなのだという普遍性があるとしたならば、もしも時代が古代ギリシャ時代だったとしたら、普遍性は、前古代まで遡らなければならないことになるので、普遍性自体が、長い時間間隔の、現代的にいうなら「世代」というものか。

あの『日本昔ばなし』を物語る、おばあさん声・おじいさん声も、語りべイメージが描かれているとするなら、おじいさん・おばあさんイメージに抜擢されているのは大正生まれ「世代」なんじゃないだろうか。

 

あの、事物を超えて仏陀やキリストや、・・・を体現したかのような、あの、事物の核心とはコレか・・・、と思わせる言葉少なに話し出す話し方は。

やわらかに、無限の糸の話をする。ときどきもつれる糸の話。

 

音楽がよかった。

そうだ、音楽とのタイアップというのか、コラボというのか。

RADWIMPS

なんて、なんて、100パーセント・ピュア恋愛なんだろう。

だから、このアニメーションなのか。

 

製作の、この方々はどんなことをしているんだろう?製作って、アニメーションの製作って。

神木隆之介さんと上白石萌音さん、って声優だったのかあ。

瀧と三葉みたいな男子女子って、いる。アニメーションって、現実の人を十分彷彿とさせている。

そこは、すごく現実的に思える。

 

2000年代生まれの子供は、「アニメーターになりたい」と、思うことがあるんだ。

考えたこともなかった。

たとえば、映画であるなら、私は私なりの消化の仕方をしているもので、それは生まれた時から、自然に飲み食べのように自然に、ジャンルは狭くても、思うことのひとつやふたつを発見できる。

映画とは何なのか?という問いは、私ではない誰かが考えることだ。そういう結論が私にあるということは、映画は私にとって、ジャンルを狭くしさえすれば、星をつけてゆけるものだ。

 

アニメーションというのは、どういう世界なんだろう?そんなこと考えたことはなかった。

トムとジェリー』だって知ってるし、『アラジン』だって『アナと雪の女王』も知っている。

ジブリも何本か観たんだ。

でも、アニメーションとは何か?なんて、考えたことはなかった。

その「リアリズム」について、一瞬でも、記憶が高速で早戻しして。戻ったのは一瞬だったかもしれない。それが、繋がりもせず、見えもしない点を打って寄越す。

「リアリズム」は、描かれた精巧な風景画なのではなくて、精巧な純粋さだとしか思えない。「絶対にあなたにも起こったことがあるはずだ」だなんて、そんな力強いメッセージを送り続けることがある。なんてことが、人の内面に向かって起こすことができるなんて。

信じられない気持ちがする。

ピュアっていうのが、ある。

成長期の少年少女にうってつけのテーマなのだから、対象を少年少女としたドラマになるはずだ。ところが結果はそれだけではなくて、アニメーションの出来は、そこから生成される偶然をはらんでいる。

人の心には、偶然ってものがある。

人の心の偶然を喚起する。

そんなシーンが、いくつもいくつもつながって、それで、こちらとしては、泣きそうになっているような錯覚がしてくる。アニメーションなので、錯覚でしかない。こんな錯覚を生むために、記憶と記憶事実というものがあるわけではないはずなのに。心がブルブル震える。

絶対に、あの経験もこの経験も、アニメーションの製作陣をはじめ、昭和生まれには、起こったことがあるはずだ。

前期高齢者の方々にも後期高齢者の方々にも、観てほしいと思った。

でも、アニメーションなんだ。と、そこで私は躊躇する。

私には、若い頃観たように、それが映画であるなら自然に備わっていた感性、娯楽性を楽しむ気持ちが失われてしまっている。

ということに、あらためて気がつかされている。

それとこれとは関係がないにせよ、リアリティには程遠いアニメーションに「リアリズム」を観ている。

アニメーションが、自分や若い人々や、後期高齢者であっても、眠れなくなるほど胸を騒がせるエンタメだったり、キャラクターに恋するだとか、ファンをそれほどまでに夢中にさせる現象があるのも知っている。

それだのに、アニメーションとは何なのか、なんて今の今まで真剣に考えたことはなかった。

・・・やっぱり、もう一回観てみる。

 

 

 

 

 

12月13日 本を3冊買う。3ヶ月に一度の歯のクリーニング

クリスマス・シリーズ

歯のクリーニング終わって、夕方4時だったので、札駅に向かって散歩することにした。何度か、歩きたくないというのか、どーしよーどーしよー・・・と、立ち止まってしまった。

用もないのに、というわけでもないし、でも、歩くのが億劫になって。でも、下向きながら歩いているうちにリズムも出てきて、いつもの調子になった。

いつもの調子、というのは歩いていると、家にいると考えなかったようなことを、歩きながらつらつらと考えて、それで歩き続けていられる。承認(欲求)じゃなくて、承認してもらおうというのではなくて………

・・・こんなふうに。帰ってきて、サラダ作ったりゴハン炊いているうちに、思い出したらサッと、「承認じゃなくて」の後を忘れ去った。思っていることが、メモされていくなら、頭の中の信号のような対話は、よどみなく字面へと翻訳されて行っているはず。考え事をしている時というのは、たとえるなら動画のスピード感に思う。メモ帳でも取り出したなら、それで違うことなる。

おまけに、私は、文となると、そこの尾鰭背鰭に自分で自分に差し障ってくる。

 

会話みたいな心地よさフレンドリーとかの、そちらに重点のあるイメージではなくて、対話。一部は長ゼリのように。でもセリフじゃないし。

宮沢賢治の、詩について、ずっとまるで宮沢賢治と語り合っているようにしていたことがあった。頭の中で、タクシー運転手の時に、

冬、日勤の朝方、日曜日だったから、1時間以上は交差点角で待機していたときだった。南4条西2丁目、一方通行でサブロク線に頭を向けて角から2番目にいて、ずっと宮沢賢治と話しているような気がしていた。「わかった」と、最終的に言ったんだ、「自己犠牲とは何かが、わかった」

自己犠牲精神には、今もかつても懐疑的に思っているから、自己犠牲の捉え方を、だったか?

1時間、2時間もいただろうか。そこの角の先頭になって、・・・その時は、そうだった。

最近は、自分の実家の親のことばかりを考える。

 

「この家は、そうなんだよ、こうなんだよ」と、話しをしている。

「これからどうなったにしてもだよ。何にしても、モイチさんが期待した通りに、お母さんは成し遂げたんだから」というような。

歩いている時は、穏やかな調子で話をしている。

 

洗濯の準備も午前中にした。購入予定していた本、新書三冊を紀伊國屋で買ってきたし。

アリストテレスアメリカ・インディアン』L . ハンケ / 著

『「自傷的自己愛」の精神分析』斎藤 環 / 著

『漂流 日本左翼史』池上彰佐藤優 / 著

 

がんばってください。

はい。

 

スヌーピー70周年記念のノート買ったんだ。

『福音と世界』2023年1月号、届いた。

早い。早すぎる。

 

これから、ブログのおわりには「がんばってください」「はい」でしめようかな。

 

12月13日 否定を極めると、或るイデオロギーにたどりつくだろうか?

クリスマス・シリーズ

クリスマス・シリーズは、こうやって、ひとを苛つかせるかのような画が、実は多かった。私の性質でしょう。有刺鉄線に組んである材木が、なぜか、漫画でみる犬が咥える、骨になっている。頭部が、コーヒーカップ仕様。

 

すごく根本的に、自分がどう見られたいかと考えると、それは他人にどう思い出されたいかということで、それは極端にいうと、他人からはそれ以外に自分について記憶にとどめるとか、思い出に残るというようなことを拒否するというような、その記憶自体について言及するようなことで、それは自意識の事と、たいがいはそちらのジャンルに振り分けられるだろうと思いますが。身近な人間関係だけで、人生の大半を過ごしているとすると、さまざまな思い出話や、さまざまなエピソード記憶を身近な人から聞く機会があると、それが、もしも自分だとしたら他人の記憶の中では、自分はどんな姿かたちだったらいいだろう?と考えることは、ごく自然にあることで、端的に直結させてしまうと、そこが結論ではなくて発端みたいなものなんだけど、それはイデオロギーなんではないかな?と思った。

それは、ひとに褒めてもらいたいエピソードが欲しいというのではなくて、かといって、ひとから陰口を叩かれる、そこの中身の常連であったとしても、どちらにしても自分は、そうやって他人についての事細かなうんちくや、他人本体への言及をそこで披露している、当の主体間である寄り合い界隈には、自分はいないとする。そうやって、そうではない、ああでもこうでもないと否定する。それでは自分はどこにいるんだろう?と考えた時、他人(他者)を想定しての総論になる。

どこにいるんだろう?という疑問は、そうすると「そこはどこだ?」という疑問になる。

イデオロギー」という、総覧の締めくくり(元締め)みたいな語は、意識的で集合的、社会で人々を結びつけるというよりも、意図して人々を選り分ける思考の道具みたいな、社会動物が社会に持ち込む極め付けみたいな。だから、個人的にひとりの、市井の誰それとしての私などが、友人知人から、あんなふうに思われたくないな、とか。その、あんなふうにとかこんなふうに、どう思われたいかということよりも、むしろ消極的に、つまり消去法みたくしていくと、それって「コレ」っていう何かが有るのか?というほど、些細に思えるものかもしれない。そこで、些細に思えるかもしれないけれど、それはイデオロギーなのではないかな!?と、思う。

イデオロギー」の語が、総覧の締めくくり(元締め)の語みたいになっているので、そこの枝葉に連なるイデオロギー、例えば自由主義マルクス主義や、リベラリズム、右翼左翼も全般について、個人感情とは次元を異にしなければならない、たぶん、そう思われるのが一般的なんだ。たぶん、おおよその人は、そう考えることの方を正解としているんじゃないだろうか。

個人の個人的な記憶について、それはイデオロギーだと認識するのと、いっぽうでは、個人的な経験と思考によるのとは別なルートが有るとしての、社会的、主に政治運動の動機みたいな、そこの考え方についてをイデオロギーと、おおやけにいう時があって。

 

イデオロギーの発端というのは、「〜ではない」という、否定から入るように思える。なぜだか?どういうことかというと、私は机上の空論の実在というのを信じようとしているし。「机上の空論」というのは、言い方のひとつにすぎなくて、空論にも意義はあると思う。座学というのも、そういう、議論中の議論、思考実験ともいえる議論には意義があるということに賛成するので。

ひとつの方向は、否定に次ぐ否定で。否定が重なると、たいがいそれを受けた者の行動は制限されて、プラス思考の側から見ると、試行錯誤の痕跡も見出せないような、埋没感があるだろうか。そうだとしても、否定に次ぐ否定があったとしても、実際のその者がこうむる経験というものは、全貌を文章でとらえようとすると、どこかが文脈や文章、文からはすりぬけてゆく。

絶対的な不一致について、それをこそ明らかにしたい、光の下にさらしてやりたいと、飽くなき苦悩と苦心にやみつきになるのは、それがイデオロギーだからなのか。

個々の経験というのは、時間を共有する時代性やそこの人間関係による影響なしでは、起こり得ないのだから、まったく単独で発想されて、それがコテコテに凝り固まってイデオロギー化するんだと、いいたいわけではない。

それで、私が日々軋轢のように感じ人知れず抵抗しているのは、そこには私が否定するイデオロギーが直に霧のように存在し、そして私が、心の中で、その界隈の粉砕を試みているとすると、その思考方法がイデオロギーなんだ。

それは、対称的だからという、抵抗としてあるのではなく「それは、どこか?」という、

無意識的に醸成されたものと、意識的なものの違いに依拠する思考の方法。

 

12月11日 ゴボウのサラダを作った。風邪薬がなくなった。民主主義について考える

クリスマス・シリーズ

クリスマス・シリーズには、言い得ぬ懺悔が、込められている。

 

かといって、私はゴリラみたくウンコを投げたわけじゃない。

ふつう、人って、「こんな悪いことをしてしまった」というのと「こんな不運をこうむった」というのと、どういう加減で考えるものなんだろう?

そういえば、劇団ブログのほうでも、罪悪感と罪責感が、もともとの役者動機のメインみたいになってきたんだけれど。具体的に、告白みたいなのは、人には、ひとぞれぞれ、さざなみのように寄せては返す良きこと悪きことのつぶつぶになって、それだけで、悲しきミイラに身を捧ぐ、囚われの奴隷、みたいな。

ためいきが、ストレス性の胃に充満したゲップみたいに、ゲホゲホ喉を苦しめる。

 

別な薬は、別な症状で気になっていたことがあって、それで。継続して服用してみようと思ったんだ。

今日のうちに、揚げが賞味期限来たので卵巾着作ってみよう。

 

民主主義について漠然としていても、な・・・と思ったから、半日『ゲンロン』読んでたんだ。

ツイッターの投稿で、「とびとびで読書する方法もあるけれど、たまに一冊通読することをお勧めする。疲れるし、労力のいることではあるけれど、読もうと決めた本があるのなら、最初から最後まで読み通せ!」と、そんなありがたい指南が、投稿にあった。

それで、なるべく、ザーーーーっと、読むようにはしている。

 

『ゲンロン』は、いろんな意味で刺激的な本だ。対話という意味でも、政治という意味でも、哲学とは?という意味でも。だから、本について、何か言いたんじゃなくて、「対話」とか、たとえば「民主主義」とか「哲学」という意味で、ゆくゆくは言いたいんだ。

 

『ゲンロン』サイドも、民主主義であるという、自分たちの居場所と現時点の確信をもってして、それでさまざま発信しているというのが、ありありで、そこで民主主義は今や危機だとの論考を展開しているので、そうなんだな・・・と、読む。

私の両親が、戦後数年の後、田舎をあとにして、さまざま取ってきた選択というのは、民主主義の時代の中では、自分たちの等身大の実力を十分に理解したうえで、最大限ケチケチして、得た収入を実利に回そうと、そのサイクルを継続した相応の結果だったんだ。父のケチケチぶりがなかったなら、それ以下になる可能性はいくらでもあったんだ。「安ければ、食べれるなら何でもいい」とさえ、今でも言っている。かつても今でも、現役サラリーマンの時にはなおのこと、あらゆるウマイ話しや夢のような誘惑もあっただろう。しかし、おだてられたり褒められたりしたことをホクホク顔で自慢することはしても、自分自身を誇大視することを、全くしなかったわけだった。それで、現役時代を終えたのだから、矜持になっているはずだ。「損したくない!」というのは。だからといって、安ければいいってものじゃない、確実に安物信仰弊害だって、巷にはある。そうではあるけれど、総じていうなら、何とか「損」とみなされるものを避けながら、現役時代を過ごせたのはそこが資本主義下だから、というよりも、イデオロギーの恩恵を考えるなら、今と同じように民主主義だったからだ。

と、私は考える。

 

というふうに、自分の身近な身辺環境・境遇などを振り返りながら、と共に、大きく思想的に、つまり史実から続く未来予測をふまえる論考などを参照しながら抽象的に頭をつかってみよう・・・・と。

・・・と、複雑に考えているわけではなくて、私は性格が弱いので、もしかしたら、手を齧りながら、タコが自分の吸盤付きのウニョウニョした八本手を食い尽くして、ついに死ぬように死ぬのかもしれない・・・という、殺伐とした妄想から抜けきれない。・・・、ツイッターなど、SNSには、いや、SNSでなくても、「こういうやり方の人は一生、英語はものにできない」とか。それを、いちいちあげられたら、「それ私のことじゃないー」と、もうホントに諦めた。いや、英語は諦めたけど。

「こんな人は、一生ダメ」みたいなのがあると、逆にそれで奮起する人もいるだろうけど。甘いこと言われるよりは、いいんだろうけど。現実的に、そうやって、人生左右される、でも、頭の良し悪しじゃない。頭を使うということは。

 

複雑に考えているわけではなくて、等身大と、そして、鳥瞰的に、そして…と。

民主主義は、その制度は、・・・・・。

資本主義が、もう無制限に暴走してるのかと思ったら、民主主義が資本主義の暴走に加担しているということなんだろうな、たぶん。資本主義が無制限に拡大するのは、世界経済織り込み済みなんだろうな、たぶん。だから、北朝鮮とか、ロシアは・・・。

中国は、あまりにも、いろいろな格差があったりなかったりで、何が統一されているのか、わけわからない。

なんで、民主主義が、うまくいかないんだろう。

っていうのは、ロシアとウクライナの戦争でも、国連安保理での採決が有っても実効性はなかった、ロシアが撤退しない限り国連の決定が実行力を及ぼすことはないってことだった。それが、民主主義の限界を物語っているようなものだろうか。

ネット詐欺みたいな、不正を働く勢力のほうが、スピードも奸智にもたけているということかな。民主主義は、スピードアップが苦手だ、とか。

オキュパイ運動で、1%の超富裕層が、世界を支配している。ということになったけど、人間は、8割とはいわなくても、7割は善人のはず。流されやすいけど、隙があれば悪事に加担しそうな奴らかもしれないけど、根は善人のはず、という人々が7割以外で、2割だとする、それで合計9割。そうすると、スピードに長けていて、悪賢いというのは、結局、超富裕層とかぶっている富裕民だろうか?

こんな、考え、悪の民主主義の首謀者を探せ、みたいだ。だいたい、「首謀者を探せ」で、過去に苦い思いをしたのは、日本人なのだから、そうやって発想することにも気後れを感じてしまうだろうか。

発想することさえ押し留めるとは、心の中の民主主義がうまくいってないんだろうか。

 

 

 

 

12月9日 風邪4日目、市販薬セシオンハイProEX

過去作品

こちらも、谷川晃一氏のドローイングに憧れたための影響による。でも、もしも「影響受けて、この絵を描きました」と、本人に伝えたとしたら、「いくつの時ですか?」なんて尋ねられるかもしれない。そうなったら、甥っ子が小学生に上がる頃・・・、甥っ子が描きました。とか、嘘をつくだろう。

私は密かに、ガリレオのように真実を独りごちる。そして、谷川晃一氏のドローイングの影響を、読み取る独自の鑑識眼をも秘密にする。

と、4コマまんがみたく、そこでストーリーは一旦終わる。それはそうなんだけど、たぶん、鑑識眼とか、ある程度、普及される一般的な知識や能力というものは、秘密にしてしまうと、化石化して、ただの偏見の塊にしかなりそうにない。たぶん、そうなんではないだろうか。秘密っていうのは、やはり漬物みたいなもので、長いこと押しつぶされて、それで味がでるみたいな。

ある程度、なにごとも認識というものは流動的であると、そう思っていられる余裕がなければ、一旦思い込みにとらわれると、あっけなく自分で自分を縛り付けることになりそうだ。

 

ぬるま湯に塩入れてうがいするのが、喉に効いてる気がする。

薬はとにかく、全部飲んでしまおう。あと1日分。

昨日、友人Tが、「9日に会う約束してたけど今日にしよう」と、電話を寄越したので、ダイソーで待ち合わせをした。私の内向性も問題あるけど、友人Tの、外に向かっての、勝手なところも問題がある。ふたりでガストで昼食を食べた。友人Tは、食べたあと、自分の清掃アルバイトのシフト表に勤務時間や、何かを書き込んでいた。弟さんが、市場の農産センターの人で、弟さんの店に行ってりんごとみかんを買ったのを、分けてくれた。「葉とらずリンゴ

今日は、今季、1日目の雪かきアルバイト。

 

家について、って、考えるの難しい。政治家が、政治について考えたら「それは制約だ」というかもしれない。家にいながら、家について考えると、まず制約がある。

でも、スラスラ、もしもスラスラ書いている時は、そういったストレスや暗に圧迫感を感じていない時なんだな。そうだとしたら、感触が違ってしまう。もうちょっと、こういう、近すぎてストレスになる、それが、けっこう普遍を感じさせる逃れ難さ、そのはずなんだけどな。

こういう。これは、何も黙って見過ごすことでも、分散させて誤魔化してしまって、それで過ぎ去ればいいってものではない。

だから、人っていうのは、鏡像関係なんだ。家の中こそ、鏡像関係なんだ。

他に、鏡像関係の他に何かないかな?