11月25日 ニシン漬け、あと4日待つ。友人の部屋の窓が開いていた
隣人である友人Nも私も、当然なんだけど、親が生きているということは、親である皆々高齢なわけで、友人は毎週、JR快速1時間をかけて御両親のいらっしゃる地元に帰って、家事手伝いをしている。で、初冬でありながら、生あたたかな晴れた午前中、友人の部屋の窓が半分開いていたので、「いるんだなー」なんて思って、通り過ぎた。
いろいろ、つまらぬことを世話焼きみたいに想像させられてはいる。
だって、ホントに、親の死に目に会うということが、目的になるんだ。最重要目的化するとしてみると、それは、生きている間に、誰かに自分の話を聞いてもらいたい、と言う人生のピークみたいな時があって、何の話かというと、全人生のうちの大半の時間をおおっていることがらについてではないんだ、ということ。人生の間にトイレにこもっている時間が何百時間もあったとしても、そのことじゃないんだ。それは何であって、何ではないのか、ということをつくづく思い知らされるようなこと。
大半のこととは、日々の胃腸の具合だとか吹き出物が消えたり出たり、どんな薬が効くだとか、誰かの家は家庭不和だとか、誰それはついに身寄りがいなくなっただとか。そうは言っても、大半のことっていうのは、生活の中の事細かで雑多なことなんだと言いたいわけじゃない。始終気掛かりにしているのに、結局は後回しになること。たとえば、こうやって座っていながら、今日はそうでもないけど、おならが出て、ガスっぽい、ゴロゴロの後にブーブー出る、という時がある。半日は、何をしていてもお腹の調子を気にかけ続けている。
常に気にかけていながら、最終的に後回しになる、それなのに人生のうちの大半のことっていうのは、言葉にはし難い。
ニシン漬け、まだ塩っぱかった。しょっぱすぎると思う。