Devilrainbowのブログ

変なIDと思われるでしょうが、こうなりました。1962年生まれです。

崩壊と着地について②

テキスト文の挿絵みたいな、オリジナル画です。

崩壊か着地かどちらかにしかならないとすると、それならばコンパスを磨いて待機する。

というのは、コンパスを磨くというとイメージがなんだか格好よさそうだけど、とにかく人生を送るのに漂うしか方法がないのだとすると、そういうものなんじゃないかなと、考えた。

昔の仕事中、出会った人が、とある会社の人事課で働いていて、リストラを敢行しなくてはならなくて随分悩んでいらっしゃった。それで私に「あなたが、リストラされる人だったとしたら、どうしてほしいですか?」と聞いてきたので、「率直に理由を話してほしいと思います」と答えた。

リストラで、ある日突然呼び出されるなんて、そうでなくても、日本の場合は、雇用契約の場合、雇い側がさまざまペナルティみたいなのをこうむるので、目をつけられた社員が自ら依願退職までをもって来させるために、会社内の同僚からいやがらせされたり、説明のつかない嫌なことが起きたり、それで、自分から辞めていくように仕向けられるとか、けっこうある。

そんなのに比べると、理由を、つまりそれは、なぜ自分が選ばれたのかということについて、査定と、合理的な冷静な対話なくして成立しないやめ方であってほしい、ということだ。

なかなかないと思うけど。ほんとうは、ないんだ。そんなの。

それでも、なるべくなら、着地であってほしいんだ。

崩壊か着地か。

着地っていうのは、やはり、なんてったって着地をイメージすることだ。

 

 

 

崩壊と着地について①

納得のいく「崩壊」というのは、自分のことを考えてみるのが分かりやすい。

「着地」という別の次元もあることを念頭に置いておくと、「崩壊」についてのイメージが明瞭になる。

私が年金をもらえるまでの期間はあと4年と数ヶ月。(・・・あと4年もある。)4年数ヶ月を含めて、その後年金をもらいながら生活することについて、つまり昨日今日の今から、死ぬまでの期間についての人生を、どうやってやりくりして過ごそうかと、生活設計というのを考えている。

65になるまでの4年数ヶ月を無職で過ごし、その後、死ぬまでの期間を年金だけで過ごそうというのは、経済的には、私は自分自身の生活スタイルならば可能だと踏んでいる。今の状態から、ゆくゆくはもう少し切りつめるならやっていけるだろうと踏んでいる。そこで併せて考えていることは、「働く」というエンジン部分を、その最終局面ともいえるそこが長いのか短いのかが、どうなるかわからない間に、どこの時点で没するか、ということだ。一番大事であるはずだった「仕事」を一番先に捨てさせるものと仮定して、生活設計の軸の中に与えてみた。

エンジン部分の損傷を小さくしていきながら、つまり精神的にも身体的にも修復しながら、何かの仕事に復帰するのを前提にして日々過ごしていくのか。そうでありながら、並行してエンジン部分はバッサリ切り捨てる第一候補にする。行き先が最終局面であるのだからまずは身軽になるのが優先されようというもの。

重たい選択のつづれ織である「仕事」というものは、決断も重量も重たい、だから捨ててしまうとめっちゃ身が軽くなる。エンジンがないということは、世の中を漂うままにまかせることになる。その場合はコンパスみたいな人生の羅針盤と思うところを磨きながらやっていくことになる。

まず、ここで、そこの一択を「身軽になって」と言い切るところが、思い描く指針を揺るがせないものにしている。身軽かどうかというのは、全人生のなかで、〈睡眠時間〉〈仕事時間〉〈身づくろい的なプライベートあれこれ時間〉と3つに分けるとすると、誰もが、〈仕事時間〉が1/3どころか半分の時間、人生の1/2の時間を費やしていることには、それ以上に、人によっては寝ても覚めても仕事に従事する人だっているのだから、その重量感たるや納得されるものだと思う。

だから、「働くこと」をまず、荷を降ろす場合の第一候補としてみた。

戦争みたいに、突然身辺に何が起きるかわからない、自分自身が変化の必要に迫られる社会生活。そして、自分についての全般的なコンデションみたいな、家族とか友人知人とか、ひとりぼっちでいるとか、プライベートに関わる全般にとっての突発的な事故や病気や幸不幸など、大きく作用するそれら。大きな軸として、その二つを上げるところに、今まで働くことに順応してきた自分の資質というものの期限がじわじわと否応なく迫ってくる。時間は自分の後ろから前へと、自分と共に歩みをすすめる。自分と時間がズレて摩擦を生じて、生きながらにしてSFXになるようなことはないだけに、仕事を選んで働くことの資質は、今度は自分の前方から期限となってこっちに向かって迫ってくる。

自分の実人生に、その大きく分けてみた二つの軸と交差する〈働く〉ということの軸は、まるで生物と生命世界観からみると虚像の虚軸のように思えてくる。がしかし、虚数が有るくらいだから虚軸も有りとしてみると、2つの軸にとって突発的な幸も不幸も何も起きないのならば、〈働く〉軸もなだらかに着地するように人生の終わりに向かってゆくだろうなと、考える。

(算数ではないけれど)逆算するように考えると、二つの軸には何も起きなかったと見なされるということは、その間仕事をしていた日々を追想してみても、事実、そこでも何ひとつ起きなかったということになる。

働くことをバッサリ切り捨てるということは、今後何も起きないだろうことを前提にして考えると、それは大きな余裕を生むことになる。

 

でも、こんな考えは誰も喜んでくれるわけがない。一生キリギリス、死ぬまで心はリゾート、死ぬまで君たちキウィ、パパイヤ、マンゴーキリギリス、あり得ない。でも、定年制というのは、人生の一時的な期間をマンゴーキリギリスであることを認めてくれる社会制度なのではないだろうか。100年より以前ならありえなかった。生まれが貧しかったなら、娘も息子も奴隷商人に売られたかもしれない。(定年制度の発案はどこの誰だったのだろう?大正生まれの1999年に亡くなった祖母は、年金支給される日が来るまで、年金制度を当てにしていなかったので保険料の支払いを渋ってブーブー言っていたという。)

仕事というのはリスクだと、そう言ってしまうと働くことに対して否定的な見解になってしまうけれど、見解の如何としてではなく、仕事や労働というものはリスキーだということは、実際に切実な一面だ。

そして、二つの軸にあって、実際上の総目録みたいになる「働く」ということを筆頭にあげて、考え方は、崩壊か着地か?という方向性への考え方をしてみようということだ。

(「働く」以外に重量級の、何か別なレーザービームみたいな、人間的なことと思える何かがあるなら、それは何だろうな?と思う。)

崩壊の可能性よりも、個人的には着地へと模索していきたい。まずは、そりゃもちろんそうだ。とすると、一番重たいエンジン部分を捨てることを優先して、とすると今度はそのエンジン部分をいつ捨てることになるのかということが、焦点になってくる。

何らかの避けられない変動が世の中に起きた場合、私の事情が予断を許さない出来事に見舞われた場合には、両軸が収縮するとしたら期限は加速度的に迫ってくる。70を期限としていたところが、65くらいで決断を迫られる事態を招来する。

たぶん、もしもの案件の場合はそうなるんじゃないかな、と思っている。65で決定的に決めなくちゃならないだろうな。無職でやっていけるか、無職のままだと崩壊するか。70だろうと踏んでいられるのは、70になるまでの間に、本当になんにも起きないだろうという想定を元にしてのことだ。

そこで、「70で再就職しようかな」と、私は自分の兄妹に世間話のついでに自説を持っていく。現実味が無さすぎて話が途切れる。

(つづく)

 

 

 

 

 

 

2020年3月30日月曜日 6:20am

今朝のここに至るまでには、小さな出来事が小さいままに過ぎ去った。

iMaciCloud写真から撮りためた1000枚近くの写真と動画を全てダウンロードしている最中。動画も、時間にしてみると多分、全長4〜5時間じゃないかと思う。それで、丸一日かかっている。ダウンロードが。

とにかく、Macで、花びらがレインボーになっているアイコンのフォトライブラリをクリックして開けてみたら、なんと全部消えていた。

それで、Appleサポートに問い合わせをして、解決方法を探ってもらって、とにかくハードディスクからは完全に消え失せていたので、Cloudには自動的に保存されるよう設定してあったので、このような運びとなった。

今のところ、原因不明の事態だった。

言わずもがな 新型コロナウイルスの惨禍が伝えられる日々。

どういう視点から見ても、どういう立場で見てみても戦場だ、という。これは戦争だ、という。

それで、戦時中に私はというと、自分がたまたま撮影した1分足らずの家族で出かけた墓参りの動画だとか、ネットで買い物する際に迷いに迷って撮っておいたリュックやバッグなんかのキャプチャ写真とか、ひとつ残らずをダウンロードしている。手元で見たいし。

そんな写真がそれほどまでにどれほどまでに大切なものなのか?

と自問自答せずにいられない。

私は、子供の頃の、年をとっても時々の、言葉のような、蝶のような、それは綺麗だとか、それは汚いだとかひとに言われて従うよりもそれ以前の、混濁した唯一の、それは私が何によって?自分の感性というものによってか、幸いにも目を見開いたものか。

そうすると、人はここで「幸い」を見る。見開いた自分自身の眼を見る人もいる。断然、そこに縛り付けられたままの人もいる。

「圧倒的」という。「セカイ系」というのだろうか?違うか?「圧倒的な」空気がなければ木っ端微塵の細切れのミイラにしかなれないこの身体。セカイ系と何の変哲もないスナップ写真に関連はない。

日本人は文書記録の保管が非常に杜撰らしい。

それとセカイ系と何の変哲もないスナップ写真に関連はない。

ホントに(マジで)何の変哲もない。

 

「失うものは何もない」と言う決まりきったセリフもあるけれど、その地平線の近くにいる。

(続く)

 

千葉雅也著『デッドライン』を読む ③(最終回)

なぜ、私はブログ①で「著者はマイノリティだと思う。」という婉曲ともいえる表現で、性的少数者というパーソナリティなところをそう表現しなければならなかったのか?だいたいからして、この、私の書き方がもう婉曲ともいえるまどろっこしさの文字数でできている。

自覚をしても、そういうのは治らない。

最近、「LGBTで……」という当事者がトランスジェンダーであれ、ゲイであれ、いったん社会問題として性差別などでとりあげられると、まとめてLGBTとメディア表記されるのは、男児が女児と表記されるのと同じくらいそれはマチガイだ…ということの、多いこと、

日本だとかなりの数で、たぶん面倒くさいんだと思う。

そういう間違いが多い、ということが表面化している。

小説の出版されたのが、2019年の11月だった。たいへん最近なことだった。現時点、まだ2020年の3月。

どおりで……再読を開始してからというもの、新型コロナウイルスのニュースの毎日と、どことなくオーバーラップするし、

「どこが!?」と、もし返されたとしたら「どことなく。」としか言いようがない。とにかく、日常の速度感というのがオーバーラップする。

長いブログは面白くない。自分で読んでも、飛ばし気味にしか読めない。自分の長いブログは面白くない。

そんなことはいいんだ。

哲学的な課題が、(その)ドゥルーズというのと、(その)哲学的な課題が、動物になるとか女になるとか、その音響的な、小説に仕立てられた仕組み。

私が自分で考えすぎて「これは考え違いだな」と、オシイ気持ちで却下したのは「デッドラインはボーダーライン(境界例)のことじゃないかな?」と思ったことだ。

著者の言う線というのは、そのことじゃないのかな?著者は、「そうだ!」というわけがない。そういう隠された謎解きキーワードがどこかに刻印されている、そういう小説ではない。

境界例について、検索してしらべたらますます違う様相なので、その考えは捨てなくちゃならなかった。だけど、それは精神病用語だけどマイノリティとマジョリティの線引きしかしたくないと考える私にしてみれば、たとえば『デッドライン』が自伝小説だとしたら、この小説の伏線になっているのか、伏流というのか、その感触はそうじゃないかな?と私には思える。

………『デッドライン』を読む 完(①②③)

 

また書き足したりして…。

 

千葉雅也 著『デッドライン』を読む…②

「一度はマイノリティになってみな」と、私は言いたいのだろうか?

私が、ただいまブログでレビューの続きとしての『デッドライン』を読む②ではあるが、書き進むと小説からは、もしかしたらどんどん逸れてゆくことになるかもしれない。そうなった場合はレビューじゃなくて、私が書いているのはエッセイになるんだろうけど。評価をするためにレビューを書きたいのではなくて、「何か言いたくなった」という発端がページのどこかにあって、著書と肩を並べるほどの言いたいことが私にはある、というところが読者の読書を永遠に終わらなくしているものなんだ。物理的には物事は保存則というルールで循環しつつ変遷しつつ保存されてゆく。その物質量は変わらないことになっている。しかし、と考える。人生ってそういうものだ。腐敗は保存則によって堆積していくものなんだ。グレタ・トゥーンベリさんは、人類が人類であり続けている間は、せめて腐敗の進行を遅らせたいと言っているようなものだ。新鮮な空気が失われるだけだ。新鮮な空気と引き換えに奇妙な化合物の生成に出会うのが人生と物質というものだ。しかし、人間の考え事は言葉によって増え続けるのみだ。それは考えごとだけの出来事ではないはずだ。考え事なだけでは済んでいないはずだ。不思議なことにここには質量はないんだ。言葉と考え事については腐敗して堆積して生成して循環するというシステムの外にあるんだ。

著者は「一度は、マイノリティになってみてほしい」と言っているのだろうか?

それは、大きな仮説だろうか?そんな収斂の仕方は、思想的でまるでファシズムのようであるかもしれない、そういう読み方は。

そうだとすると一般大衆のマジョリティが偏見をもって不安視する「みんながレズビアンだのゲイだのバイセクシュアルだのトランスだのクィアだのプラスアルファだのとなったらどうなる?」という「みんなが!?LGBTQ +になるなんて?!」という有り得ない想像に加担することにもなる。(「そうなったらハッピーなのに」とは断じて想像することすらできない何かがマジョリティにはある。)硫黄臭のプンプン漂う地獄谷の底は見ないでモノを言うような「物も人も見ないでモノを言う」それがマジョリティ生成の一端であるかのように。

私は、マジョリティとマイノリティという構造にとらわれすぎたようだ。

そうだと思う。

 

最新の人型ロボットが宙返りや垂直飛びやスクワットやウサギ飛びを実演している様をみると、実際のロボットの能力は、わざわざ少し屈む姿勢を作らなくても直立の姿勢からバビュンと宙返りができるはず。そんな様にして、ロボットには筋肉にあたるような柔らかい物質は使われていないのに、人を模して筋肉運動を模した運動ができるようにまで進化させている。

といっても、マジョリティとマイノリティが、ロボットと生物との差を同じように持っているというわけではないし。

 

 

私は「一度、マイノリティになってみなよ」と勧めている。(「そうなったらハッピーなのに」とは誰も想像することはできない。)

著者も、たぶん勧めている(たぶんそんなことは考えていない)。マイノリティ、それはゲイなのかメタモルフォーゼなのか、同性愛にまつわる様々はマイノリティであるということ、本当に孤独な何かの動物なのか、著者が主人公に言わせている「女」なのか。

マイノリティになってみなよ、とは、私がブログを書いているうちに思いついたことだった。

そんな小説ではなかったはずなので、

もう一度読んでみることにする。

 

千葉雅也 著『デッドライン』を読む…①

こんなに早々と読み終えるというのは、誰かのツイートに「ムラムラしてくる」という、とある方の、好意的ととらえてよさそうな読書感想があったので、「ムラムラする気はしないなあ…」と思いながら半分ほど読んでいたあたりからペースが速まって、Kindleなので残り25%くらいになると、「もうそこまできてるのか」と思って読み終えてしまった。読後の感想というのは、解放感のある読後がちゃんと用意されていて、そういう小説だった。Amazonのレビュー案内が表示されるので、為されるがままにAmazonでレビューも書き込んで、星を並べてつけて、それでハタと止まった。ふつう、レビューというのは、読書意欲をそそる重点箇所を解説をつけて示すことができて、それで批評も感想も混ぜたもので、良し悪しに終始してもいいし、次の読者にエントリーしそうな人が「読んでみたい」とか、あるいは「それなら買わなくてよかった」とか判断を導くかするもので、レビューの意義はそこにあるはずで、すごい評論家もたまにレビューを書き込んでいるものらしい。

ところで、そこのところが私は、読後の直にもかかわらず細部のひとつふたつを思い出せる程度だったので、高評価をつけたつもりでありながらも抽象的な表現になったので、自分としても、褒めるわけでもない貶すわけでもないレビューとしてはめっちゃ物足りないと思った。それでひと眠りしてからもう一度考えてみた。

その細部というのは「目やにをとる…」と、本人のかそれとも相手の目やにをどうにかしてとってやるものなのか、そんな10文字に満たないような些末な部分が、まるでシンセサイザーのストリングスの流麗な響きにわずかな0.01秒ピッ……と、西洋紙を指先でちぎった音を挟んだかのような、そんな印象を残したところだった。そんな感じで、読後というのは2〜3何かを思い出していた。

著者はマイノリティーだと思う。それを当然のように読む読み方をすると、レビューを書き込んでまだ言い足りないという気持ちにはならなかっただろう。著者をマイノリティーだと思い、私もマイノリティーだと思う。そうでなければ、この小説は成立していないと思われる。それが言い過ぎかどうかわからないけれど、そういうアプローチのある小説だったわけで、その人生の一場面を切り取った世界には、政治臭というものは皆無で、生活感が断片的にあるだけの設えといったところ。音楽や絵画など、時の政治臭を被って生きているようなものに較べると、この小説の時間の歩みかたはどうだとか、読書中も文字を追いながらも感覚が感覚を吟味しているような感があって、それはまったく『デッドライン』小説世界の生き方のようだった。

そうだったと思う。文体というものがあって、読者に文体が乗り移る経験というのは、著者の文筆家としての強烈な個性によるものだとは一概に言えるものではなくて、どういう作用があるものかはわからないが、だったとしたら誰しもが「これなら書ける」と思わずにいられないものだった、と思う。

そこで文筆業へとジャンプしたくてそうなのではなくて、「こういう書き方、生き方もあるんだ」というところ。

文体というのが、それが、堕落していては世間的にはマズいけど、破天荒な経歴が披露されていたなら社会的にはスリリングなものかもしれないし。分析的ということへの解放感をもたらしているのは、文体と、著者が哲学者だからなのかもしれない。

こういうことは読者にとって大事なことだと思う。そういう意味で、おすすめの一冊となる。

話は戻るけど、誰彼に向かって「一度はマイノリティーになってみな」と、私は言いたいのだろうか?