Devilrainbowのブログ

変なIDと思われるでしょうが、こうなりました。1962年生まれです。

崩壊と着地について①

納得のいく「崩壊」というのは、自分のことを考えてみるのが分かりやすい。

「着地」という別の次元もあることを念頭に置いておくと、「崩壊」についてのイメージが明瞭になる。

私が年金をもらえるまでの期間はあと4年と数ヶ月。(・・・あと4年もある。)4年数ヶ月を含めて、その後年金をもらいながら生活することについて、つまり昨日今日の今から、死ぬまでの期間についての人生を、どうやってやりくりして過ごそうかと、生活設計というのを考えている。

65になるまでの4年数ヶ月を無職で過ごし、その後、死ぬまでの期間を年金だけで過ごそうというのは、経済的には、私は自分自身の生活スタイルならば可能だと踏んでいる。今の状態から、ゆくゆくはもう少し切りつめるならやっていけるだろうと踏んでいる。そこで併せて考えていることは、「働く」というエンジン部分を、その最終局面ともいえるそこが長いのか短いのかが、どうなるかわからない間に、どこの時点で没するか、ということだ。一番大事であるはずだった「仕事」を一番先に捨てさせるものと仮定して、生活設計の軸の中に与えてみた。

エンジン部分の損傷を小さくしていきながら、つまり精神的にも身体的にも修復しながら、何かの仕事に復帰するのを前提にして日々過ごしていくのか。そうでありながら、並行してエンジン部分はバッサリ切り捨てる第一候補にする。行き先が最終局面であるのだからまずは身軽になるのが優先されようというもの。

重たい選択のつづれ織である「仕事」というものは、決断も重量も重たい、だから捨ててしまうとめっちゃ身が軽くなる。エンジンがないということは、世の中を漂うままにまかせることになる。その場合はコンパスみたいな人生の羅針盤と思うところを磨きながらやっていくことになる。

まず、ここで、そこの一択を「身軽になって」と言い切るところが、思い描く指針を揺るがせないものにしている。身軽かどうかというのは、全人生のなかで、〈睡眠時間〉〈仕事時間〉〈身づくろい的なプライベートあれこれ時間〉と3つに分けるとすると、誰もが、〈仕事時間〉が1/3どころか半分の時間、人生の1/2の時間を費やしていることには、それ以上に、人によっては寝ても覚めても仕事に従事する人だっているのだから、その重量感たるや納得されるものだと思う。

だから、「働くこと」をまず、荷を降ろす場合の第一候補としてみた。

戦争みたいに、突然身辺に何が起きるかわからない、自分自身が変化の必要に迫られる社会生活。そして、自分についての全般的なコンデションみたいな、家族とか友人知人とか、ひとりぼっちでいるとか、プライベートに関わる全般にとっての突発的な事故や病気や幸不幸など、大きく作用するそれら。大きな軸として、その二つを上げるところに、今まで働くことに順応してきた自分の資質というものの期限がじわじわと否応なく迫ってくる。時間は自分の後ろから前へと、自分と共に歩みをすすめる。自分と時間がズレて摩擦を生じて、生きながらにしてSFXになるようなことはないだけに、仕事を選んで働くことの資質は、今度は自分の前方から期限となってこっちに向かって迫ってくる。

自分の実人生に、その大きく分けてみた二つの軸と交差する〈働く〉ということの軸は、まるで生物と生命世界観からみると虚像の虚軸のように思えてくる。がしかし、虚数が有るくらいだから虚軸も有りとしてみると、2つの軸にとって突発的な幸も不幸も何も起きないのならば、〈働く〉軸もなだらかに着地するように人生の終わりに向かってゆくだろうなと、考える。

(算数ではないけれど)逆算するように考えると、二つの軸には何も起きなかったと見なされるということは、その間仕事をしていた日々を追想してみても、事実、そこでも何ひとつ起きなかったということになる。

働くことをバッサリ切り捨てるということは、今後何も起きないだろうことを前提にして考えると、それは大きな余裕を生むことになる。

 

でも、こんな考えは誰も喜んでくれるわけがない。一生キリギリス、死ぬまで心はリゾート、死ぬまで君たちキウィ、パパイヤ、マンゴーキリギリス、あり得ない。でも、定年制というのは、人生の一時的な期間をマンゴーキリギリスであることを認めてくれる社会制度なのではないだろうか。100年より以前ならありえなかった。生まれが貧しかったなら、娘も息子も奴隷商人に売られたかもしれない。(定年制度の発案はどこの誰だったのだろう?大正生まれの1999年に亡くなった祖母は、年金支給される日が来るまで、年金制度を当てにしていなかったので保険料の支払いを渋ってブーブー言っていたという。)

仕事というのはリスクだと、そう言ってしまうと働くことに対して否定的な見解になってしまうけれど、見解の如何としてではなく、仕事や労働というものはリスキーだということは、実際に切実な一面だ。

そして、二つの軸にあって、実際上の総目録みたいになる「働く」ということを筆頭にあげて、考え方は、崩壊か着地か?という方向性への考え方をしてみようということだ。

(「働く」以外に重量級の、何か別なレーザービームみたいな、人間的なことと思える何かがあるなら、それは何だろうな?と思う。)

崩壊の可能性よりも、個人的には着地へと模索していきたい。まずは、そりゃもちろんそうだ。とすると、一番重たいエンジン部分を捨てることを優先して、とすると今度はそのエンジン部分をいつ捨てることになるのかということが、焦点になってくる。

何らかの避けられない変動が世の中に起きた場合、私の事情が予断を許さない出来事に見舞われた場合には、両軸が収縮するとしたら期限は加速度的に迫ってくる。70を期限としていたところが、65くらいで決断を迫られる事態を招来する。

たぶん、もしもの案件の場合はそうなるんじゃないかな、と思っている。65で決定的に決めなくちゃならないだろうな。無職でやっていけるか、無職のままだと崩壊するか。70だろうと踏んでいられるのは、70になるまでの間に、本当になんにも起きないだろうという想定を元にしてのことだ。

そこで、「70で再就職しようかな」と、私は自分の兄妹に世間話のついでに自説を持っていく。現実味が無さすぎて話が途切れる。

(つづく)