Devilrainbowのブログ

変なIDと思われるでしょうが、こうなりました。1962年生まれです。

千葉雅也 著『デッドライン』を読む…②

「一度はマイノリティになってみな」と、私は言いたいのだろうか?

私が、ただいまブログでレビューの続きとしての『デッドライン』を読む②ではあるが、書き進むと小説からは、もしかしたらどんどん逸れてゆくことになるかもしれない。そうなった場合はレビューじゃなくて、私が書いているのはエッセイになるんだろうけど。評価をするためにレビューを書きたいのではなくて、「何か言いたくなった」という発端がページのどこかにあって、著書と肩を並べるほどの言いたいことが私にはある、というところが読者の読書を永遠に終わらなくしているものなんだ。物理的には物事は保存則というルールで循環しつつ変遷しつつ保存されてゆく。その物質量は変わらないことになっている。しかし、と考える。人生ってそういうものだ。腐敗は保存則によって堆積していくものなんだ。グレタ・トゥーンベリさんは、人類が人類であり続けている間は、せめて腐敗の進行を遅らせたいと言っているようなものだ。新鮮な空気が失われるだけだ。新鮮な空気と引き換えに奇妙な化合物の生成に出会うのが人生と物質というものだ。しかし、人間の考え事は言葉によって増え続けるのみだ。それは考えごとだけの出来事ではないはずだ。考え事なだけでは済んでいないはずだ。不思議なことにここには質量はないんだ。言葉と考え事については腐敗して堆積して生成して循環するというシステムの外にあるんだ。

著者は「一度は、マイノリティになってみてほしい」と言っているのだろうか?

それは、大きな仮説だろうか?そんな収斂の仕方は、思想的でまるでファシズムのようであるかもしれない、そういう読み方は。

そうだとすると一般大衆のマジョリティが偏見をもって不安視する「みんながレズビアンだのゲイだのバイセクシュアルだのトランスだのクィアだのプラスアルファだのとなったらどうなる?」という「みんなが!?LGBTQ +になるなんて?!」という有り得ない想像に加担することにもなる。(「そうなったらハッピーなのに」とは断じて想像することすらできない何かがマジョリティにはある。)硫黄臭のプンプン漂う地獄谷の底は見ないでモノを言うような「物も人も見ないでモノを言う」それがマジョリティ生成の一端であるかのように。

私は、マジョリティとマイノリティという構造にとらわれすぎたようだ。

そうだと思う。

 

最新の人型ロボットが宙返りや垂直飛びやスクワットやウサギ飛びを実演している様をみると、実際のロボットの能力は、わざわざ少し屈む姿勢を作らなくても直立の姿勢からバビュンと宙返りができるはず。そんな様にして、ロボットには筋肉にあたるような柔らかい物質は使われていないのに、人を模して筋肉運動を模した運動ができるようにまで進化させている。

といっても、マジョリティとマイノリティが、ロボットと生物との差を同じように持っているというわけではないし。

 

 

私は「一度、マイノリティになってみなよ」と勧めている。(「そうなったらハッピーなのに」とは誰も想像することはできない。)

著者も、たぶん勧めている(たぶんそんなことは考えていない)。マイノリティ、それはゲイなのかメタモルフォーゼなのか、同性愛にまつわる様々はマイノリティであるということ、本当に孤独な何かの動物なのか、著者が主人公に言わせている「女」なのか。

マイノリティになってみなよ、とは、私がブログを書いているうちに思いついたことだった。

そんな小説ではなかったはずなので、

もう一度読んでみることにする。