Devilrainbowのブログ

変なIDと思われるでしょうが、こうなりました。1962年生まれです。

千葉雅也 著『デッドライン』を読む…①

こんなに早々と読み終えるというのは、誰かのツイートに「ムラムラしてくる」という、とある方の、好意的ととらえてよさそうな読書感想があったので、「ムラムラする気はしないなあ…」と思いながら半分ほど読んでいたあたりからペースが速まって、Kindleなので残り25%くらいになると、「もうそこまできてるのか」と思って読み終えてしまった。読後の感想というのは、解放感のある読後がちゃんと用意されていて、そういう小説だった。Amazonのレビュー案内が表示されるので、為されるがままにAmazonでレビューも書き込んで、星を並べてつけて、それでハタと止まった。ふつう、レビューというのは、読書意欲をそそる重点箇所を解説をつけて示すことができて、それで批評も感想も混ぜたもので、良し悪しに終始してもいいし、次の読者にエントリーしそうな人が「読んでみたい」とか、あるいは「それなら買わなくてよかった」とか判断を導くかするもので、レビューの意義はそこにあるはずで、すごい評論家もたまにレビューを書き込んでいるものらしい。

ところで、そこのところが私は、読後の直にもかかわらず細部のひとつふたつを思い出せる程度だったので、高評価をつけたつもりでありながらも抽象的な表現になったので、自分としても、褒めるわけでもない貶すわけでもないレビューとしてはめっちゃ物足りないと思った。それでひと眠りしてからもう一度考えてみた。

その細部というのは「目やにをとる…」と、本人のかそれとも相手の目やにをどうにかしてとってやるものなのか、そんな10文字に満たないような些末な部分が、まるでシンセサイザーのストリングスの流麗な響きにわずかな0.01秒ピッ……と、西洋紙を指先でちぎった音を挟んだかのような、そんな印象を残したところだった。そんな感じで、読後というのは2〜3何かを思い出していた。

著者はマイノリティーだと思う。それを当然のように読む読み方をすると、レビューを書き込んでまだ言い足りないという気持ちにはならなかっただろう。著者をマイノリティーだと思い、私もマイノリティーだと思う。そうでなければ、この小説は成立していないと思われる。それが言い過ぎかどうかわからないけれど、そういうアプローチのある小説だったわけで、その人生の一場面を切り取った世界には、政治臭というものは皆無で、生活感が断片的にあるだけの設えといったところ。音楽や絵画など、時の政治臭を被って生きているようなものに較べると、この小説の時間の歩みかたはどうだとか、読書中も文字を追いながらも感覚が感覚を吟味しているような感があって、それはまったく『デッドライン』小説世界の生き方のようだった。

そうだったと思う。文体というものがあって、読者に文体が乗り移る経験というのは、著者の文筆家としての強烈な個性によるものだとは一概に言えるものではなくて、どういう作用があるものかはわからないが、だったとしたら誰しもが「これなら書ける」と思わずにいられないものだった、と思う。

そこで文筆業へとジャンプしたくてそうなのではなくて、「こういう書き方、生き方もあるんだ」というところ。

文体というのが、それが、堕落していては世間的にはマズいけど、破天荒な経歴が披露されていたなら社会的にはスリリングなものかもしれないし。分析的ということへの解放感をもたらしているのは、文体と、著者が哲学者だからなのかもしれない。

こういうことは読者にとって大事なことだと思う。そういう意味で、おすすめの一冊となる。

話は戻るけど、誰彼に向かって「一度はマイノリティーになってみな」と、私は言いたいのだろうか?