なぜ、私はブログ①で「著者はマイノリティだと思う。」という婉曲ともいえる表現で、性的少数者というパーソナリティなところをそう表現しなければならなかったのか?だいたいからして、この、私の書き方がもう婉曲ともいえるまどろっこしさの文字数でできている。
自覚をしても、そういうのは治らない。
最近、「LGBTで……」という当事者がトランスジェンダーであれ、ゲイであれ、いったん社会問題として性差別などでとりあげられると、まとめてLGBTとメディア表記されるのは、男児が女児と表記されるのと同じくらいそれはマチガイだ…ということの、多いこと、
日本だとかなりの数で、たぶん面倒くさいんだと思う。
そういう間違いが多い、ということが表面化している。
小説の出版されたのが、2019年の11月だった。たいへん最近なことだった。現時点、まだ2020年の3月。
どおりで……再読を開始してからというもの、新型コロナウイルスのニュースの毎日と、どことなくオーバーラップするし、
「どこが!?」と、もし返されたとしたら「どことなく。」としか言いようがない。とにかく、日常の速度感というのがオーバーラップする。
長いブログは面白くない。自分で読んでも、飛ばし気味にしか読めない。自分の長いブログは面白くない。
そんなことはいいんだ。
哲学的な課題が、(その)ドゥルーズというのと、(その)哲学的な課題が、動物になるとか女になるとか、その音響的な、小説に仕立てられた仕組み。
私が自分で考えすぎて「これは考え違いだな」と、オシイ気持ちで却下したのは「デッドラインはボーダーライン(境界例)のことじゃないかな?」と思ったことだ。
著者の言う線というのは、そのことじゃないのかな?著者は、「そうだ!」というわけがない。そういう隠された謎解きキーワードがどこかに刻印されている、そういう小説ではない。
境界例について、検索してしらべたらますます違う様相なので、その考えは捨てなくちゃならなかった。だけど、それは精神病用語だけどマイノリティとマジョリティの線引きしかしたくないと考える私にしてみれば、たとえば『デッドライン』が自伝小説だとしたら、この小説の伏線になっているのか、伏流というのか、その感触はそうじゃないかな?と私には思える。
………『デッドライン』を読む 完(①②③)
また書き足したりして…。